鈴木敏夫のジブリ汗まみれを文字起こしするブログ

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学術講演会「スタジオジブリの30年~歴史と継承」の模様をお送りします。ゲスト:與那覇潤さん

2014年12月17日配信の「鈴木敏夫ジブリ汗まみれ」です。

http://podcasts.tfm.co.jp/podcasts/tokyo/rg/suzuki_vol347.mp3

 

ーナレーションー

 

今週は、10月3日に鈴木さんの出身地、愛知県の愛知県立大学で行われた学術講演会「スタジオジブリの30年〜歴史と継承」の模様をお送りします。

 

インタビュアーは『帝国の残影 兵士・小津安二郎の昭和史』『中国化する日本 日中「文明の衝突」ー千年史』などの著作者、若き歴史学者であり、現在愛知県立大学日本文化学部准教授の與那覇潤さんです。

 

 

那覇:本日お伺いしたいのは、スタジオジブリというのはどうして国民大の文化になったのか。正直どうでしょう?スタジオジブリを立ち上げられたときに、ここまで自分たちが国民文化の物語の担い手になる、ということは想定していらっしゃいましたか?

 

鈴木:答えは明快ですよね。何にも考えなかったです。ほんとに。というのか、目の前ののことをコツコツやってたら、こうなっちゃったっていうんですかね。

 

宮崎駿が"千と千尋"で色んな賞をいただいたりとか、色んなところで評判になったんですけど。あるとき国際交流基金というのがあって、"千と千尋"が世界の人にアピールした。で、日本の交流基金としては彼に賞を与えよう、と。そんな機会があったんですけど、その会場は行ってみたらある瞬間、二人きりになっちゃったんですよ。それで宮崎駿がふと漏らしましたね。「どうしてこんなことになっちゃったの、鈴木さん」って(笑)それで僕しょうがないから「宮さん、頑張ったからいけないんですよ」っていったら「鈴木さんだって頑張ったじゃない」とか言ってね(笑)

 

那覇:ちなみに、どこかでこれはいけるっていう瞬間っていうのはなかったんですか?

 

鈴木:そんなことも考える余裕がなかった。というのか、僕が思うのはね、一つの会社って年数をかけてやってると、色んな経費がどんどんかかるようになるんですよね。そうすると、

 

最初のうちは『風の谷のナウシカ』っていうのを作ったとき、楽しくてしょうがないわけですよ。それで色々あって"ラピュタ"を作る、と。ここら辺も楽しいですよね。で、次は"トトロ"だ、『火垂るの墓』だってやってくうちに会社にかかる経費ってどんどん上がってくんですよね。

 

僕らのジブリっていうのは宮崎駿が、他の仕事をやるのはよくないよ、と。いちスタッフで一本の作品をみんなで寄ってたかって作る、この体制は崩したくない、と。ということをやっていくとですね、会社っていうのは一本の作品に対して、どんどんどんどん制作費が膨らんでいくっていう構造になるわけなんですよね。

 

僕としては、"魔女"から『思い出ぽろぽろ』、その辺りで初めて、ヒットさせないとかけたお金が回収出来ない。

 

"ナウシカ"とか"ラピュタ"とか"トトロ"のときは、映画を作ることに一生懸命で、それを宣伝して多くの人に観てもらう、そういう努力は全くしなかったんですよ。

 

ところが、先程申し上げたような事情で頑張らなきゃいけなくなって、宣伝にも力を入れるっていうのが始まったのが、"魔女"から『思い出ぽろぽろ』の頃。

 

那覇:なるほど。

 

鈴木:やっぱり宣伝すると、お客さんも来てくれるってことがわかるんですよね。その後の歴史を言えば、それがエスカレートしていく歴史。毎作品見事に制作費が上がっていく。じゃあ宣伝の方も頑張らなきゃいけないって。

 

那覇:お客さんを呼ぶためのスタートが『魔女の宅急便』『思い出ぽろぽろ』、ちょうど1990年前後の作品ですよね。というのが印象深いなというものがありました。

 

また、自分は実は91年の『思い出ぽろぽろ』が、ジブリが国民映画を目指し出した最初の作品かな、とちょっと思うところがあったんです。冒頭の作品タイトルが入るところの字幕が、あれは小津安二郎と同じスタイルをわざと使われてますね?

 

鈴木:はい。

 

那覇:さらに熱海の温泉に行って溺れかけるっていうエピソードが最初に出てきますけど、小津安二郎の一番有名な『東京物語』が、熱海の温泉に行って、ちょっと嫌な思いをするっていうエピソードがある。

 

また、結局最後に山形の農家の男性と主人公が結ばれて終わるわけなんですけど、そこでも「私でよかったら」といって結ばれちゃえばいいのに、みたいな形で、やっぱり小津安二郎の『麦秋』からの引用がありますよね?作品全体としても高度成長時代に小学生だった子供の思い出を、主人公が振り返りながら旅が続くという形で。

 

この辺りからスタジオジブリさんというのが、国民全体の記憶、国民みんなが持ってる世代的な記憶っていうのものをフィルムに定着させようとし始めたのかな、と思ってたんですけど、それは深読みですか?

 

鈴木:高畑監督が小津監督が好きで、僕も大好きだったんですよ。その頃現場で何が起きてたかというと、映画を作っていく中で、オープニングを作ってなかったんですよ。

 

最後の土壇場に高畑監督がどうしようかなって言ってるから、「小津さんのやつ、そのままやりましょうよ」って僕が提案するんですよ。で、あれやり方を知ってたんです。油絵を描くキャンバスの裏側なんですよ。それをちょっと拡大すると、あの感じになるんですよね。

 

那覇:麻布みたいなものですよね。

 

鈴木:そうですね。さっきおっしゃった『麦秋』のセリフが出てきますんで、ある種のオマージュにもなるんじゃないか、と。そういうのはありましたね。まあ熱海は『東京物語』なんですけど、あれは原作にあったんですよね。

 

那覇:あ、なるほど。いま原作の話が出ましたけど、スタジオジブリがどうしてここまで国民全員が共有している文化になっているのか、と。様々な趣味の細分化、メディアの細分化が進むと言われる中で、非常に稀有なことだと思うんですね。

 

実は夏学期には、NHK大河ドラマのプロデューサーをお呼びしてお話を伺ったんですけど、いま国民全員が観ているものとして、NHK大河ドラマであるとか、朝の連続テレビ小説であるとかっていうのは、NHKという公共放送機構がついているから実現をしている。

 

しかし、それを純粋に民間で実現しているのはスタジオジブリだけじゃないかと思うんですね。どうして、スタジオジブリが国民文化として定着したのか。宣伝を頑張られたという実践的な理由もあったわけなんですけど、個人的には社会的な親に相当するような役割というものを、スタジオジブリさんが国民全員に対して果たされたのかなっていう気持ちがあるんです。意外と原作がある作品っていうのが多いですよね? 

 

鈴木:そうなりますかね?

 

那覇:『魔女の宅急便』にしてもそうですし。

 

鈴木:『火垂るの墓』も。

 

那覇:そうですよね。もちろん『風の谷のナウシカ』のように、宮崎駿監督本人が自分で原作を書いて、自分で映画化されるというのもありますけど、他のところに原作があるパターン。『借りぐらしのアリエッティ』『思い出のマーニー』もそうですよね。結構多いな、という風に感じていて。

 

ジブリが手を加えることでオリジナリティが高まるので、多くの人は原作の小説をそこまで意識をしてないかもしれないですけど、原作の小説が存在しているパターンが多い。

 

これってある意味で親が子供に小説を読み聞かせてあげるように、スタジオジブリという集団が国民全体に対して小説の読み聞かせをしているような、そういう状況なんじゃないかなと思うんですが、その辺りはどうですか?

 

鈴木:なるほどね。結果的としてそうなるんでしょうね。現場では何が起きてるかと言ったら、会社運営なんてそんなこといって夢も希望もない話で申し訳ないんだけれど、「そろそろ次作んなきゃ」なんですよ。

 

「そろそろ次作んなきゃ」ってときに、やっぱり原作で映像化した方がいいものがあるんならそれをやろうっていうことで、その映画化のために本を読むってことは僕らないんですけれど、雑に言うと、これまで読んできたその他の中から、「あれちょっとやろうか」みたいな話は出るんですよね。

 

那覇:なるほど。

 

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鈴木:僕ら映画作るときに考えてることが三つあって、第一には映画っていうのは当たり前だけど娯楽なんだから、面白くなきゃいけない。第二に多少は言いたいことは言おうかなっていうね。三つ目はお金を儲からなきゃ次の映画作れない、なんて考えてるんですよ。

 

そのときに多少は言いたいことはあるっていうのは、現代っていうのがどういう時代なのとか、そういうことはよく喋ってるんですよね。そういう中でここはこうすべきだよね、とか、あそこはああすべきだとか、ある本が題材だったりテレビのドキュメンタリーが題材だったり、そういうのをきっかけによく話してるんですよ。そのことがきっかけとなって映画の中で一言ぐらい言ってみようか、とか。

 

もう一つ。高畑・宮崎のコンビというのは、確かにジブリで色んな作品を作ってきたけれど、その残滓がありますよね。残滓っていうのは何かといったら、二人が映画もやったけれどテレビで作ってきた作品、『アルプスの少女ハイジ』『母をたずねて三千里』そして『赤毛のアン』なんですけど、これ振り返ってみると、僕正確な年数忘れちゃったんだけど、"ハイジ"が71年とかその頃ですよね。そういうことでいうと、ジブリの作品が色んな人に支持されていくってとき、ジブリが始まる以前に"ハイジ"とか『赤毛のアン』を皆さんが観てたっていうのが大きな要素の一つかなって、ちょっとしましたね。

 

那覇:そこで下地を作っていたわけですね。

 

鈴木:そうですね。

 

那覇:まさに世界名作劇場ですね。

 

鈴木:ちょっと話が横道に逸れちゃうんですけど、実はジブリの作品って、世界の色んなところで特にヨーロッパで支持されるんですよね。フランスを中心として。スペインとかイタリアとか。そういうときに皆んなそうなんですけれど、向こうの人たちも実は"ハイジ"を観てるんですよ。

 

那覇:えー!

 

鈴木:子供のときに観たって。それでジブリの新しい作品持っていくじゃないですか。そうすると、子供のときに観た"ハイジ"と似てるとかね(笑)そういう話をよく聞きましたね。

 

那覇:じゃあある意味、世界文学というものが今でも活きてるわけですね。

 

鈴木:現地の人たちは、まさか"ハイジ"を日本人が作ったっていうのはほとんど知らないんですけどね。

 

那覇:それは吹き替えで流れてるんですね。

 

鈴木:そうです。

 

那覇:じゃあ、世界児童文学みたいなところで共通して観られている部分が、大人になっていくとジブリの需要を可能にしているっていうのは、日本だけじゃなくヨーロッパでも共通している。なるほど。貴重なお話をありがとうございます。

 

高畑勲監督の場合は、『火垂るの墓』を撮られた次が『思い出ぽろぽろ』になるわけですけれども、その辺りから、最新作である『かぐや姫の物語』に至るまで、一貫して日本文化の中にアニメを位置づけるという欲求のようなものを感じるんですけど、それはいかがですか?

 

鈴木:高畑さんは西洋かぶれでヨーロッパなものが好き。中でもフランス。フランス文学の影響を受けた人なんで。

 

そういう中で彼は外国のちゃんとした児童文学っていうんですかね。例えば、エンデの『モモ』を映画にしてみたいとか、あるときはこれは若い時なんですけど、スウェーデンリンドグレーン、その人が作った『長靴下のピッピ』、これは宮崎と二人で作ろうとしていたんですけれど、本来はそういうものを作りたくてしょうがなかったんですよ。

 

で、結果として"ハイジ"とかやったあと、『火垂るの墓』にいくんですけど、それをやったあと高畑勲は言いましたね。「やっぱりこれからは日本が舞台でなきゃ、僕は作る気がしない」って。

 

那覇:ほーー劇的な日本回帰ですね。

 

鈴木:そうですね。

 

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那覇:1935年生まれの高畑勲監督と1941年生まれの宮崎駿監督の両輪で回してきたスタジオジブリであるわけなんですけど、近年は、宮崎駿監督のお子さんである宮崎吾朗監督が1967年生まれ。また最新作である『思い出のマーニー』の監督である米林宏昌監督が1973年生まれ。一気に若返りますね。

 

当時からスタジオジブリをどう継承していくか、というときに、いきなりガクっと若返らそうと、こういうビジョンでやってたんですか?

 

鈴木:いやーそれも行き当たりばったりで(笑)何のビジョンもなかったんですよ。というのか、ジブリを作ろうっていうとき、宮崎駿の作品を作りたかったんですよ。

 

彼の作品だけを作るスタジオとして、やれるまでやれるうちはやってみよう、なんて始まったんですけど、ナウシカラピュタとやってて、一人だけじゃ無理だなって(笑)それで高畑さんに応援頼む、っていうのがこの二人がテレコで作るっていうジブリの歴史と深く関わってくるんですけど。

 

そうやってやっていくうちに、宮崎駿も初めのうちは『紅の豚』だって、あれ一年で作ってるんですよ。実作業は。それからラピュタだってそうだし。そういうことをやっているうちに、段々歳をとってきて、時間がかかるようになってきたんですよ。

 

そうすると、高畑勲宮崎駿より8歳年上なんで、作るのに2年もかかるなぁって宮崎駿も文句言い出すんですよ。「なんで高畑さんだけ二年で作って、俺は一年なんだ」とかね(笑)そういう細かい話があって、じゃあしょうがないなぁって、二人とも二年に一本作ろうかってやってるうちに、間が空いちゃうようになるんですよね。

 

それで間どうしよう?ってことで、急遽、近藤喜文っていう人に『耳をすませば』の監督をやってもらうとか、最近だと先程ご指摘があったように宮崎吾朗米林宏昌なんですけれど。闇雲にやってたら、二人にも機会を与えちゃってやってもらっちゃった。

 

那覇:意外や意外。実は継承ということはあまり考えてこられなかった?

 

鈴木:元々考えてなかったんですよね。

 

那覇:一代限りのプロジェクトになると?

 

鈴木:そう。ある日突然、頑張って生まれたジブリがなくなっちゃう、って一番夢見てたんですよね。

 

大体宮崎駿がズルいんですよ。二人でずっとやってきたじゃないですか。僕がちょっとでもサボると、本当怒ってたんですよね。「鈴木さん、ちゃんとやってよ!」「鈴木さんが引退するんだったら、俺も引退するぞ」とか言って、脅されたりしてね。そうしたら、自分が先に引退って言っちゃったわけでしょ?僕はあの日のことを忘れないですよ。それで引退の記者会見とかやっちゃってね。帰りですよ。二人っきりになったんです。そうしたら彼が何を言ったかというと、「鈴木さん、大変だよね。このあと。俺は引退したからいいけど。」いい加減にしてほしいですよね。

 

那覇:なるほど(笑)

 

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那覇スタジオジブリというメディア自体が、巨大な歴史的な経験を継承する装置にもなっているんじゃないかと最近思わされることがあります。

 

そもそも最初の、まあナウシカは厳密にいうとジブリ以前ですけれども、ナウシカという作品自体、最後引き上げで終わりますよね?ある意味、戦争体験の継承というメッセージがナウシカにも込められてるかもしれないし。

 

火垂るの墓』は、よりもっと典型的に戦争体験の継承を担う作品になったんですけれども。

 

特に『魔女の宅急便』で平成に入るにつれて、ジブリの作品というのが、私もリアルタイムでは知らない世代なんですけれども、知らない世代が増えてる「昭和」という体験を継承するメディアとして機能してるんじゃないかな、と思わされることがございます。  

 

例えば、『魔女の宅急便』も親の仕事は継がないわけですから、上京とか出京という体験を私たちに教えてくれますし、『平成たぬき合戦ぽんぽこ』は多摩ニュータウンの造成ですよね。高度成長とそれに伴う住宅地の開発、環境破壊。『千と千尋の神隠し』も最初に寂れてしまったテーマパークみたいなものが出てくることで、バブル崩壊の日本の雰囲気を伝えてくれてるところがありますし、『風立ちぬ』は文字通り、昭和の体験とは何だったのか、というのを独特の形で私たちに伝えてくれる歴史映画になってるわけですね。

 

スタジオジブリというもの自体が、いまや一つの歴史産業になっているようなところも感じないでもないんですが、その点はいかがでしょう?

 

鈴木:テレビでドキュメンタリーが三人とも好きで、特にNHKスペシャルは本当にいろいろ観てきたんですよ。あるときに僕なんかもそう思ってたからそういう言い方をしたんですけど、テレビって本当はもっと現代史を扱えばいいのにって。それを数少なくやってるのが、Nスペなんじゃないかって。なんてことはずっと思ってたんですよ。そして、僕らはそれを題材に色んなことを話し合ってきたんで。それが直接とは言わないですけど、知らぬ間に映画の中に反映させてるってことがあったんでしょうね。

 

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那覇:最後に、今回のポスターにもスチールを提供していただきました最新作の『思い出のマーニー』の話をするのがいいかな、と思うわけなんですけど、これは米林宏昌監督の第二作でスタジオジブリの最新作になってるわけなんですが、『思い出のマーニー』劇場で拝見して、自分は一種のアンチジブリの試みなんじゃないのかなって思ったんです。

 

最初、田舎のおじちゃん、おばちゃんの車に乗って田舎に行くあたりが『となりのトトロ』を連想させるところがありますし、最初は元気のなかった女の子が、働く男性・女性に包まれて成長していくあたりは『千と千尋の神隠し』を連想させたりするんですけれども、なかなかこの女の子が元気にならないわけですよね。

 

それまでのジブリだったら段々生きる力が芽生えてくるはずが、最後の最後まで元気にならないっていうあたりに、むしろこれまでのジブリの定番の語りに対する挑戦みたいなものを新しい世代として出されているのかな、と受け取ったんですが、そのあたりはいかがでしょう?

 

鈴木:二つ話があるんですけど、"マーニー"の作画監督っていうのがいまして、安藤っていう男なんですけど。これは何かっていうと、スタジオジブリに入社して、若いとき26とか28くらいのときに宮崎駿のもとで『もののけ姫』と『千と千尋の神隠し』の作画監督をやった男なんですよ。

 

実は"千と千尋"が終わったあと、会社辞めちゃったんですよね。宮崎駿と映画を作っていく上でちょっと意見の相違があったんですね。何でかといったら、千尋が最初ふて腐れてるじゃないですか?それであの不思議の街に入っていって、お父さんお母さんが豚になったあと働かなきゃいけなくなって、その後元気になるっていう話なんですけれど、安藤は彼女がどういう状態でふて腐れてるのか、をもっと長く描きたかったんですよね。

 

那覇:へーー。

 

鈴木:そうなんですよね。それを安藤がずっと覚えてて、今回"マーニー"をやるっていうときに、そこがあるんだったらやるっていうのが彼の条件だったんですよ。作品ってそういうことも起きるんですよね。

 

那覇:なるほど。

 

那覇:普通、作画監督ってそういう意見言わないんですよ。彼の場合、絵が上手いし、芝居が上手いからそれで充分なんですけど、一方でそういう意見も持つ。作品の内容に対して。

 

それで僕としても悩んだんですけど、彼が来てくれて米林と一緒にやると、強力な布陣になるなと思って麻呂(米林監督のこと)に相談したら彼が「是非来てもらいたい」っていうんでやったら、やっぱり彼のことがきっかけでそのシーンが前半長くなるんですよ。

 

那覇:そんなに違ったんですね。

 

鈴木:全然違いますね。

 

それと僕は個人的にちょっと思ってたことで。あれ一応"マーニー"という企画を選んだんですけれど、一番考えてたのは、そろそろ映画のテーマの転換期かなって気がちょっとしてたんですよ。

 

戦後1945年から、日本ってずっと貧乏だったじゃないですか。映画って時代の影響を受けるんですよ。黒澤明だろうが誰であろうが、チャンバラだろうが何だろうが、ホームドラマだろうが、どこかで「貧乏の克服」っていうのがテーマ。

 

そうすると、その後高度経済成長で豊かになった後の描くテーマは大雑把にいうと、「心の悩み」に移っていったのかなって。それの克服。それの一段落がもしかしたら今かなと思って。

 

それでこの"マーニー"やるときに、人の孤独みたいなものをちゃんとやってみるとどうなのかな?ってことは提案したんですよ。

 

那覇:ああ、じゃあしっかり継承を考えてらっしゃるんじゃないんですか?実は。

 

鈴木:一応そういうことは考えるんですよね(笑)