鈴木敏夫のジブリ汗まみれを文字起こしするブログ

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鈴木さんが語る「素顔の手塚治虫」

2015年4月5日配信の「鈴木敏夫ジブリ汗まみれ」です。

http://podcasts.tfm.co.jp/podcasts/tokyo/rg/suzuki_vol362.mp3

 

ーナレーションー

鈴木敏夫ジブリ汗まみれ。2015年はまんがの神様といわれている手塚治虫さんが亡くなって26年を迎えます。今年も全国で手塚さんの原作「ドン・ドラキュラ」「アドルフに告ぐ」「ブッダ」などが舞台化され、オーストラリアでは「鉄腕アトム」の実写化が進められていたり、手塚アニメがテレビで再放送されたり、関連書籍も発売されています。いまだに全世界で愛されている手塚作品。

今週は、その手塚さんと交流のあった鈴木さんが語る『素顔の手塚治虫』をお送りします。

 

 

 鈴木:いやー僕ね手塚さんにお目にかかったのは、会社入って2年目。徳間書店というところで漫画雑誌をやることになって。そこの漫画雑誌「コミック&コミック」っていうんですけど、色んな作家さんに描いていただきました。で、あるとき手塚さんがやることになるんですよ。

 

ご承知のように手塚さんって、連載を7本抱えていて、毎日違う漫画描くみたいな漢字でしょ?原稿がとれるかとれないかで大騒ぎで。編集者が集まる部屋があって、そこで待ってて、とりあえず1回目の原稿が今日ちゃんと描いてもらえるかっていう日になぜか僕はすんなりと遅れることなく描いてくれて。皆さん苦労してたんですけど。

 

その日、原稿をいただいて会社に戻ったのが朝の5時半とか6時くらい。7時に印刷所が取りに来るんですよ。そこへ手塚さんから電話がかかってきて、「先程ありがとうございます」っていったら先生が「ちょっと直したいところがあるんだ」と(笑)「直したいって言われたって、もう無理です。入稿しないと真っ白になっちゃうんで勘弁してくださいよ」と。それで電話で押し問答なんですよ。正確にどのくらいやったかは忘れちゃったんですけど、先生が「わかった。今回はしょうがない」と。かなり押し問答やったことは覚えてるんですよね。それで「だったらもう一回描かせて下さい」と。僕としてはたまげた思い出があるんです。何なんだこの人は!と思って。

 

それで本が出来たあと、僕先生に会いに行ったんです。

 

聞き手:ええ。

 

鈴木:原稿描いていただくにあたって、気になっていたことが2つあって。

 

聞き手:はい。

 

鈴木:1つ。原稿料どうしますか?って(笑) そうしたら手塚さんが「原稿料はいくらでもいいよ」って言って。当時の原稿料は偉い作家さんで1枚7万円から8万円。その時にいくらでもいいよ、って言われたんで困っちゃって。

 

「だからといって1万円というわけにはいかないでしょ?」といったら「いいんだよ、それで」って。「どうしてですか?」ときいたら、結果的にこれが色んなことを教えてもらう大きなひとつになるんですけど、「僕が原稿料高かったら、注文来なくなるんだよ。でも安ければ来るだろう」って。これは目から鱗でしたよね。「第一、僕の漫画は単行本にすれば売れるんだから、関係ないんだよ」って言われて。

 

それで手塚さんって面白いなーと思って、それでお腹の中に溜めてあったことをつい口に出しちゃうんです。

 

手塚さんに原稿を描いていただくにあたって、マネージャーがいるんですけど、この方もうお辞めになってるから、名前は出しませんが、本当にひどい人だったんですよ(笑) 何がひどいかというと、とにかくしっかりしていない。それで先生に「余計なこと言っていいですか?何であの人マネージャーにしとくんですか?」と。そうしたら「君、ここが大事なんだよ。優秀なマネージャーなんかおいたら、僕は大変だろ。次から次へと仕事が生まれちゃう。僕だって色んなパーティーに顔は出す。そうすると、色んな人から『先生、頼んだのに描いてくれなくて~』って言われる。そういうときに僕は『何で僕に直接言ってくれなかったんですか』って(笑) そのときのためにあいつは置いてあるんだ」って言われて。本当に目から鱗。すっかり僕先生に魅了されたんです。

 

それで僕はアニメーション雑誌をやることになって、手塚さんってアニメーションもおやりになってるんで、アニメージュが創刊して1年が経った正月頃です。1年が経って日本のアニメーション界がどうなっていたかということで、手塚さんに座談会やるときに司会をやってもらおうと考えたんですよ。

 

そう手塚さんにご連絡したら、「え!僕司会やるの?」ってお喜びになって。「僕も長い間色んなことしてきたけど、司会はやったことない」と。面白いこと言う人だなと思って(笑)

 

現場にはガンダムを作る富野さんとか、東京ムービーというところで『巨人の星』『あしたのジョー』を作っていた藤岡さんとか、色んな方が集まったんですよ。その年は『宇宙戦艦ヤマト』っていうのが大ヒットの年で、アニメージュもそれがキッカケで生まれたような雑誌なんですよね。

 

ーーー

 

鈴木:手塚さんがお忙しいこともあったんでしょう。ヤマトぐらいは名前は知ってましたよ。ところが、中身については一切知らない。そうしたらその場で皆さんに「ヤマトっていうのは一体何なんだ?」とか色々訊かれたんですよ。その質問に皆さんが答える形で。段々内容が見えてきたんですね。それでハッと見たら、なんと手塚さんが司会をやりながら、目に一杯涙を溜められて。

 

聞き手:え?

 

鈴木:これは僕たまげましたね。何かなと思って、「先生どうされたんですか?」と訊いたら、「僕は今日本当に悲しい。そのヤマトっていうのは一言でいうと浪花節でしょ?もしそういうものが今の日本の若い人に支持されているとしたら、僕が戦後漫画で描いてきたものが全く意味がなかったってことじゃないか」と。そんなようなことをおっしゃったんですよ。要するに「僕は日本人が持っている浪花節根性が嫌いで、科学というものを少年文化に持ちこんで、それで日本の子供たちをもう少し合理的にものを見る人に育ってほしい、という願いを込めて漫画を描いてきた。それを全部ひっくり返すようなものが支持されていることに対して、僕は本当に悲しいんだよ」ということをおっしゃったんです。

 

それが凄く印象に残ったのと、その年の10大ニュースを選ぼうっていうことだったんです。ちょうどその頃手塚さん、アニメーションをお作りになってたんですよね。それが僕の記憶だと『火の鳥』。その絵コンテをお描きになってたと思うんです。その10大ニュースの中で美形キャラ。宮本武蔵でいうと佐々木小次郎みたいなやつ。そういうキャラが受けるんだと。『闘将ダイモス』ではこういうのがウケてるとか、色んな話があったんですよ。

 

それに対して、手塚さんが怒ったんですよ。「何とくだらないことが流行ってるんだ。なんですか?その美形キャラというのは」って。

 

その場は事なきを得て、終わりました。皆さんは帰られて、僕は会社に戻る。会社に戻ってしばらくしたら、手塚さんから電話があったわけですよ。

 

聞き手:ええ、ええ。

 

鈴木:「今日はどうもありがとうございました。何ですか、わざわざ」「きみ今日ね、美形キャラっていうのが出てたでしょ?」「はいはい。先生が怒ってらっしゃったやつですね?」「あれを描かせたら一番上手いのは誰なんだ?」「荒木伸吾っていう人なんですけど、この人が一番上手いですかね」「その人の連絡先はわかるかな?」って(笑) ビックリしちゃって(笑) 「何なんですか、それ?!」ってきいたら「やっぱり『火の鳥』にも美形キャラが必要だろう」と(笑) 何て言うんだろう。転んでもただじゃ起きない。

 

やっぱり手塚さんってデビュー以来亡くなるまで、偶然第一線を走っていたわけじゃないんですよ。世の中で忍者ものが始まれば、自分も忍者ものを描くし。

 

これは言っていいか悩むんだけど喋っちゃうと、これは後の話ですよ?『風の谷のナウシカ』がアニメージュで連載して、おかげさまで人気が出たわけですよね。そうしたら漫画協会っていうのがあって、毎年漫画賞っていうのを決めているんですよ。その事務局長が僕の知り合いで事前にご連絡があって、「実は選考委員会を開いてる。今年の漫画賞に『風の谷のナウシカ』を推したいとなったんです。宮崎先生はこれを受けていただけるんでしょうか?」みたいな話が来たんですよね。僕もその当時はあまり深く考えないんで、有難い話なんで「大丈夫でしょう!」と。そうしたらその事務局長の方が「ありがとうございます。ただ今みんなで話し合っているんだけど、手塚先生が仕事を抱えてらっしゃって遅れて参加されるんで、最後に手塚先生の確認だけとらなければいけないんです」「そうですか。じゃあ結果がわかればもう一度ご連絡いただけますか?」と。

 

そうしたらその日の深夜にその人から連絡があって、「ちょっと言いにくいことなんですけど、手塚先生がですね反対をされました。弁護をしておくと、『風の谷のナウシカ』は事前に僕らで選んでおきまして、手塚先生いかがでしょうか?ときいたら、「それは宮崎君が描いたやつだから、それは素晴らしい。僕も目を通してますよ。漫画賞に相応しい。ただし、まだ完結してませんよね?残念ですね。漫画賞にはやっぱり完結しないと」」って。

 

色んな漫画家の方もいらっしゃったんですけど、息を飲んだらしいんですよ。というのは、この漫画賞毎年完結したやつで賞をもらったやつないんですよ。 大体連載中のやつが賞もらうんですね(笑)

 

手塚さんは宮崎駿のことはよく知っていたんですよ。自分のライバルだと見なしたんでしょうね。あの人は本当に面白かったですね。

 

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鈴木アニメージュになってからも、面白い人だから亡くなるまでお付き合いするというのか(笑)ちょっと距離を取りながら、色んな機会に色んなことを教えていただいたり。僕としては本当に印象深い方。

 

これは名前を出すと色々差し障りがあるのであれですけど、宮崎駿のことをあるプロデューサーがどうしても映画を作らせたいっていうのがあったんですよ。ナウシカの前に。カリオストロの城もまだできてないんですよ。才能があるんだけど、なかなか世に受け入れられない。

 

で、その人が手塚さんに相談に行ったらしいんですね。そうしたら手塚さんは当時から宮崎駿のことをよく知っていて、「いやー宮崎君というのは素晴らしい。僕も是非応援したい。」と。で、宮崎が作りたいある原作があるという話をしたら、「あ、それは僕も知ってるよ。あれを映画にするのかね。それはいいじゃないか。君も関わるんだね。わかった。君がプロデューサーをやって、宮崎君が監督だ。僕が総監督をやりましょう。」って(笑)

 

なんていうのかな(笑)もうらしいんですよ!こんなことばっかり喋ってると、手塚さんって何なんだってことになるんだけど、石ノ森章太郎さんっていらっしゃったじゃないですか?

 

聞き手:はい。

 

鈴木:仕事柄あの人とも親しくしていて。石ノ森さんって、富士見台のある喫茶店の隅っこによくいたんで、僕よく喋ってたんですよ。で、雑談しに行ったら、何かの拍子にこうおっしゃったんですよ。「手塚さんってすごいね。あの人は漫画が好きだ」って。僕ね、漫画なんだから当たり前じゃないかってどこかで思っていて「石ノ森さんも漫画好きでしょ?」ってきいたら、「違うよ。僕はお仕事だもん。先生は本当に好きなんだよ。君ここの違いは大きいよ」って。そんなことを聞かされましたね。

 

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鈴木:次から次へと出てくるアイディアは腐るほどありましたよね。僕ほんのちょっと付き合っただけでも、そのアイディアいっぱい聞かされて。ポンポン出てくるんですよね。単発の漫画でもこういう風がいいか、ああいう風がいいかってすぐおっしゃるし。考えるっていう人じゃないですよね。その場でおっしゃるから。で、瞬く間に5、6本出てくるんですよ。

 

で、宮崎駿っていう人もそうなんですけど、それを具体化出来ない苛立ちがあるんですよ。要するに思いつくのはいっぱいあるけど、全部出来ないじゃないですか。それを悔しがってる感じ。

 

それでいてすごい人間臭い。勝ち負けにこだわる人なんですよ。だから、僕がアニメージュで夢の座談会ということで、手塚先生、石ノ森章太郎松本零士、この3人で座談会やろうと思ったんですよ。そうしたら色んな人から無理だって言われたんです。なんでかっていったら、みんな忙しいでしょ?第一どうやってその3人を案配するか。

 

午後3時か4時か忘れましたけど、京王プラザってところで部屋をとってお待ちしていたら、驚くべきことに30分前に手塚さん到着。手塚さんが一番最初に着いた!ありえない!そうしたらすぐに「僕ね実は取材がある。下の喫茶店で10分くらいで終わるやつだから。石ノ森さんと松本さん来たら、鈴木さんすぐ来てくれ」と。

 

で、午後3時キッチリにいらっしゃったのが石ノ森さんなんですよ。5分の狂いなく。石ノ森さんが来たんで、「石ノ森さんありがとうございます」っていったら「僕は近いから」って。本当に歩いて5分だったんですよ。石ノ森プロっていうのは。

 

でも零士さんがなかなか現れない。その途中で手塚さんのところにいって、石ノ森さんがいらっしゃっている。まだ零士さん来てないんですよ、っていったら、「あ、そうですか。じゃあもう少しこの取材続けますね」って。「来たらすぐ呼んでください」。

 

そうしたら20分くらいしたら、零士さんがお見えになったんです。僕は手塚さんのところに行って、「零士さんお見えになったんでお願いします」って。そこから1時間ですよね。待たされました。その第一声忘れないんですよ。「いやーー待たせちゃって!」って(笑)

 

聞き手:(笑)

 

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鈴木:長編アニメーションとテレビアニメーションあるじゃないですか?手塚さんは世で言われていたようにウォルト・ディズニーが大好きだっと思うんですよ。だから自分もいつか長編アニメーションをやるっていうんで、『孫悟空』でしたかね。その時に手塚さんが少し関わるでしょ?本格的に関わることになるのが『鉄腕アトム』。

 

その『鉄腕アトム』は毎週作らなきゃいけない。その時に手塚さん自身がこうすれば作ることが出来るって色々考えたことがその後のアニメーション界を支配したじゃないですか?

 

そうするとやっぱ漫画と比較すると、その手塚さんが考えた『鉄腕アトム』は、中身はともかくストーリーはいわゆるアニメーションとしての面白さは手抜きが多かった。ちゃんとしたものにしようとしたのが、高畑勲そして宮崎駿の仕事ですよね。そんな風に思ってます。

 

昭和38年僕らは小学生で確かに見ていましたけれど、僕らにとっては面白かった。ただあとでアニメーションの現場に入ってみると、あの『鉄腕アトム』というのは何だったんだろうって。僕の記憶だと「鉄腕アトム」は1話1800枚。それで作るっていう。

 

一方、高畑勲宮崎駿がテレビでやった『アルプスの少女ハイジ』っていうのは、8000枚から1万枚。そのレベルを維持するっていうのは、日本のアニメーションをちゃんとしたものにしたいっていう心意気ですよね。そういうことでいうと、手塚さんに対する暗黙の批判だと僕は受け止めてますね。 

 

民間テレビ局で夏に90分やるやつなんかも、放送の3日前まで絵コンテ描いてるんですよ?無茶苦茶ですよね。漫画とアニメーションは違ってるんで、漫画における凄いものを描いた手塚さんと、アニメーションはシステムが違うわけだから、そこで同じようにやろうとした手塚さんは無理があったと僕は思ってますけどね。

 

その後、色んなテレビアニメ作られたけど、例えば『巨人の星』の頃、全テレビ局に見回しても全3本くらいしかシリーズがなかったんですよ。そうすると『鉄腕アトム』のツケで、もう一回ちゃんとしたものを作らなきゃダメよっていう時代は『アルプスの少女ハイジ』の登場を待つしかなかったんじゃないですかね。

 

自分はそっち側に属してるから色眼鏡もあるかもしれないけれど、やっぱりテレビアニメーションにおいては、「アルプスの少女ハイジ」っていうのは凄かったと思ってます。やっぱり手塚さんはちゃんとやるべきだったんじゃないかな(笑)

 

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鈴木:漫画って一言でいうと、子供だましの物だったでしょ?ところが大人の鑑賞に耐える漫画を描いて、同時に子供を喜ばせたってこれが手塚さんの残したものじゃないですかね。

 

やっぱり初期の漫画は凄いですよ。よく言われる『宝島』その他なんですけど、僕らの世代だと『ワンダーくん』が好きだったしね。

 

講談社から手塚さんの漫画100冊。300冊だったかな?が出たときは、すぐ買っちゃいましたからね。毎月毎月。

 

ーナレーションー

 

鈴木敏夫が語る手塚治虫さんのお話、いかがだったでしょうか。手塚さんの意外な素顔が垣間見れたんじゃないでしょうか。

 

鈴木:手塚さんってね、一方で漫画を描いてるけれど一方でアニメーションをやってたでしょ?こういう言い方を直接お聞きしたことがあるんです。「僕の作品のアニメーションを作ってくれる人たち、このスタッフっていうのは本当のスタッフなんだ。なぜなら僕の作品を形にしてくれる。アシスタントは違いますよ。いつライバルになるかわからない。」だから常に敵と見なしていましたよね。だからアシスタントには考えながら喋ってましたよ。