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ポッドキャスト版「鈴木敏夫のジブリ汗まみれ」「未来授業」の文字起こしをやっています。「未来授業」は2020年4月分からです。文字起こししてほしいものがあれば、ツイッターのDMに連絡下さい→https://twitter.com/hatake4633

<未来授業>引地達也 第4回「暗闇のなかで物を見る」

 

ーナレーションー

今週の講師は、シャローム大学校学長、引地達也さんです。

 

シャローム大学校は、障害がある子どもたちが、特別支援学校を卒業した後の教育プログラム。引地さんは障害がある人もない人も、ともに学び、働く社会の在り方を模索しています。

 

障害者施設「津久井やまゆり園」で入所者が殺害された事件について、引地さんが考えることとは?

 

未来授業4時間目、テーマは「暗闇のなかで物を見る」。

 

引地:私もああいう施設に行く機会はありますし、そういった人たちとの交流をしている私としてはその人たちの多くの命が亡くなってしまったことに対しては、非常にやるせない思いでいっぱいなんですけど。

 

ただそれを置いてですね、ちょっと考えたときに、被告になっている彼は、我々の社会が作り出した彼なんではないかな、ということを非常に感じるわけなんです。その社会は何かっていうことを考えたときに、まずはそこの津久井やまゆり園の場所がですね、社会と隔絶された地域と隔絶された場所にあるという現実というものを我々はもう1度考えた方がいいと思います。

 

地域の中で障害者が暮らすということは、もう既にヨーロッパでは普通に考えられているスタンダードなんですけども、日本では地域の中でそういった人が普通に暮らすということがまだちょっとハードルがある社会なんですね。

 

その社会で地域と隔絶されたあそこの場所に居させているということっていうのは、この被告にとってみれば、「いなくてもいいという1つの現れですよね?」という解釈になってしまった。それは間違えではあるんですけど、ただ僕らがその解釈を許している部分もあるんじゃないのかなと思うんですね。

 

彼が間違った解釈の延長戦上に「じゃあ殺してもいい。なくしてしまえ」という話になり、それは理解出来るでしょ?ということで衆議院議長さんに手紙を送っているわけなんですけども。

 

ある程度精神障害、パーソナリティ障害だったとしても、そう思わせる余地を我々の社会は作ってしまってきているんじゃないかなっていうことが、我々自身暮らしながら実感をすべきですし、これが現実だと思うので。

 

そこを私自身も地域移行であったり、障害者を真ん中に置く考えだったりしながらですね、それを実行に移して、そういった社会を少しでも無くし、結果的にああいう方がああいう考えをしないような社会に出来ればいいかなっていう風に私自身は思っています。

 

ーナレーションー 

障害者施設「津久井やまゆり園」の入所者殺傷事件について、インターネットの書き込みなどでは、加害者に対する激しいバッシングが見られます。

 

けれども引地さんは、「マイノリティへの差別意識はまさにそこから生まれる」と話します。

 

引地:彼をバッシングしてしまうという状況は、結果的に同じことを繰り返す社会なんじゃないかなっていうような危機感は、私自身は思っているんですね。

 

スティグマ」っていう言い方をしますが、これは「烙印」ということですね。ギリシャ時代から何か犯した人に対して烙印を押す。身体に印がわかるように。この人は悪い人ですよ、ということをわかるようにしてきた人間の文明社会というのがわかるわけで。この人は悪いですよ、ということで、あっちとこっちを分けてしまう、という特性というのは、我々の社会・集団社会には必ずあるわけなんですね。

 

簡単に記号化してしまうというところの前に、立ち止まってやらなきゃいけないことが沢山あるんですけども、烙印を押すっていうのはある意味障害者ですよ、とか、この人は危険な人ですよ、と記号化して記号化した言葉の中にその人を定義付けてしまって、そこから抜け出せなくしてしまうという、マジョリティはそれが1番安全だと思ってる状況なんですけども、そこは僕は立ち止まりたいな。

 

よく言う例えにですね、暗闇の中に懐中電灯を照らせば、そこのスポットは明るくなりますよね。ただ、懐中電灯で照らすことによって、懐中電灯以外の部分は見えなくなってしまう。障害という言葉で懐中電灯で照らすことで、その他の部分が全て排除されてしまう。

 

実は暗闇の中に色んな現実ありますよね。障害をお持ちの方で、グレーゾーンで葛藤している人が、色んな思いがあって社会が成り立っているのに、懐中電灯で他の者を排除してしまってはいることはないか?ということを常に私自身考えますので、差別ってそういうことだと思うんですよね。

 

何か懐中電灯でスポットを当てて、そこで記号化して、その言葉の定義付けの中に人を押し込んでしまう。そこをもう少し僕らは、議論したり、色んな言葉を駆使してですね、障害という言葉自体も必要なのか?ということを問いかけながら考えていき続けなきゃいけないんじゃないかなっていう風には思っております。

 

いま面白いのは、TOKYO2020でパラリンピック始まってますけど、パラアスリートとか「パラ」ということを言っていることによって、障害という言葉が段々使わなくなってきているんですね。 

 

皆さん気づいてきて「やっぱり凄いじゃん」と。手がないとか足がないとか、その状態で運動出来ることの、障害やスポーツじゃないレベルでこれやってるのが、段々皆さんわかってきたわけですね。

 

そこに障害という言葉じゃないなっていうところで、「パラ」という言葉でいま我々は納得しようっていうかですね、それを1つのカテゴリーにしていこうと思っている、気持ちが動いていると思うんです。

 

で、同じようにこれも我々が、普通に障害のある人と接することによって、障害のある人と接したら、障害者という言葉があまり出ないんですね。面白いことで。「あなた障害者ね」っていう話って目の前ではしないっていうところで考えると、おそらく接することによって出てくる新しい言葉、それが僕らの中で少し一歩進んだ良い社会になっているんじゃないかなっていう風には私は考えてます。