鈴木敏夫のジブリ汗まみれを文字起こしするブログ

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映画『ドライブ・マイ・カー』について語る(後編)

2021年9月26日配信の「鈴木敏夫ジブリ汗まみれ」です。

https://podcasts.tfm.co.jp/podcasts/tokyo/rg/suzuki_vol703.mp3

 

ーナレーションー

鈴木敏夫ジブリ汗まみれ。

 

今週は先週に引き続き、オンラインサロン「鈴木Pファミリー」のメンバーと鈴木さんの娘の麻美子さん、小松季弘さん、鈴木さんと映画『ドライブ・マイ・カー』について語る映画談義の模様をお送りします。

 

村上春樹の短編小説集『女のいない男たち』に収録された短編『ドライブ・マイ・カー』を濱口竜介監督・脚本により映画化。第74回カンヌ国際映画祭で日本映画としては、史上初の脚本賞を受賞。加えて、他4冠獲得の偉業を果たしました。

麻美子:じゃあ次、清水さんお願いします。

 

清水:映画を観て特に印象に残ったのが、序盤の家福と音の会話の部分なんですけど、必要以上に感情が込められていないように感じて、そのことによって逆に言葉そのものが際立っているように感じました。

 

それと同時に、家福も音も何を考えているのかがわからないようにもそれによっても思えて。自分の想像がそこに入っていくことによって、人物像にすごく深みが出ているように思いました。

 

麻美子:へぇー。

 

清水:もう一個思ったのが、序盤のそこのやりとりの部分が、自分が本を読むときに頭の中で再生する音声に近いなと思った部分があって。そういった意味でも、想像を働かされたかなと感じました。皆さん、そこの部分どういう風に感じられたかな、というのが個人的には気になりました。

 

麻美子:あれ、わざとだよね?ああやって感情を無くしたような喋り方。それこそ本読みの時もそうだったけど、あれってなんなんだろう。

 

新井:あ、いいですか?

 

麻美子:はい。

 

新井:あれはわざと抑揚をつけないで台詞を読ませることで、台詞を暗記させるというか、役者に抑揚のない状態で台詞をインストールするっていう演出法というか。

 

麻美子:そういうのがあるんだ?

 

新井:そういうのがあるんです。濱口監督は実際、自分の撮影でもそういう演出をしてまして。

 

麻美子:そうなんだ!

 

新井:そうなんです。徹底的に本読みをやってから、それも抑揚のない声でひたすら本読みをやってから現場に入って、「じゃあ演技して下さい」っていうやり方をしてるんです。

 

麻美子:そうなんだ!それがそのまんま映画の中でも入ったんだ。

 

鈴木:韓国の女の子が言うじゃん?オーディションの時「どうしてこんなことやらせるのか。説明して下さい」と。結局、後でさ、実際選ばれた後、その意味がわかったみたいな。

 

麻美子:じゃあ次、ごうへいさん。

 

木暮:この映画って、気になることが多いんですよね。例えば、多摩ナンバーは何でだ、とか。

 

鈴木:気になるね(笑)

 

木暮:でもこれって全部、答えが書いてあるんですよね。ヒントが隠されてる気がして。多摩ナンバーでいうと、映画の中で説明があった通り、家福って一時間かけて台詞の練習を車の中でするので、そう考えると、新宿とかまで出るまで多摩までの距離って一時間くらいなのかなって思って、多摩ナンバーだろうなって思ったり。

 

無音のシーンも結局、空き巣の描写があると思うんですけど、八目鰻の。空き巣に入った時って無音なんですよね。「補聴器で強調されたような無音」っていう説明があるので、実はそことリンクしてるんじゃないかなって思ったりしましたね。

 

この映画って、視点を考えてみるといくつか見方があって、私がメインの視点として考えいたのが、辛い時こそ仕事をしなさいって言っているように感じるんですよね。それはソーニャの台詞でもあった通り、「ワーニャ伯父さん生きていきましょう。他の人のために働きましょう」って最後呼びかけるシーンがあると思うんですけど、まさにその通りで。

 

今回出てくるキャラクターそれぞれが落ち込むわけですよね。例えば、音にしても娘が死んでしまって、どうしようもなく虚脱状態になったところで、脚本家っていう仕事を手に入れて復活してきたりとか、みさき自体もお母さんを見殺しにしてしまうわけですけど、お母さんって二重人格だったんですよね。暴力を振るった後に出てくるもう一人のお母さんっていうのが、名前サチっていうんですよね。

 

麻美子:ちっちゃい子のやつね?

 

木暮:そうですね。想像するにサチって「幸せ」って書いてサチなんじゃないかなって勝手に思ってるんですけど。そういう幸せを失った後に、色んな仕事を見つけて、結局、ドライバーになって報われる。

 

あとは手話の方も、元々ダンサーでやっていたわけですけど、流産をしてしまうわけですよね。広島で俳優という仕事を見つけて、報われていくっていう。

 

家福も同時に妻を失うんですけど、最後ワーニャ伯父さんを演じることで救われていくっていうところだと思いますね。

 

麻美子:じゃあ次、ウッチーさんお願いします。

 

内田:私は昭和映画好きなんで、普段あんまり観ない作品で煽るような音楽やそういうシーンがなくて新鮮に映りました。

 

麻美子:昭和の映画はね、煽る音楽とかがあるもんね。

 

内田:怖いところに怖い音楽がついたりするじゃないですか。そういうのがなかったので、新鮮に思えました。

 

私自身、40代の妻と二人暮らしをしてるんで、この映画のシーンにはちょっと身につまされるような印象を受けました。

 

麻美子:(笑)

 

鈴木:身につまされたんだ(笑)

 

麻美子:面白い(笑)

 

内田:会話をもうちょっと増やそうかなと。

 

鈴木:これは実感があるね(笑)

 

麻美子:ほんとだね!面白い(笑)

 

鈴木:これは良いコメントだね(笑)

 

内田:ありがとうございます。印象深いシーンとしましては、成田空港が欠便となった時に、妻とのオンラインで家福がちょっとした嘘をついて、それが大元で結構歯車が狂い始めてしまったじゃないのかなっていう風に思いました。

 

あともう一点。私は10代の頃、山口県で過ごしまして。車で広島から北海道まで行くっていう発想、これは現地に住んでるとないんで、よっぽど家福は行きたかったのかなっていう風にも思いました。

 

鈴木:家福は音のああいうのを見ちゃうわけじゃない?でもこの間も何回もあったんでしょ?たぶん。

 

麻美子:この間も?

 

鈴木:あれが初めてじゃない。

 

麻美子:見ちゃったのが初めてじゃないってことか。

 

鈴木:うん。という気がしたのがまず一つね。ちょっと細かいところで色んなことを言って申し訳ないんだけれど。

 

それと二つ目はね、広島から北海道まで車でっていう話あったでしょ?ところがですね、僕の近くにそういう人がいるんですよ。それは誰かというと、東京から北海道まで車で行ったり、九州まで車で行ったり。しかも60過ぎてから。宮崎駿っていう人なんですよ(笑)

 

麻美子:えー!ほんと?!

 

鈴木:そう(笑)本当に車好きなんだよね。

 

麻美子:そんな暇あるの?

 

鈴木:いやいや、一本作ると間空くじゃん。だからよくそういう旅行を。しかも奥さんと一緒に行ったり、仲間と行ったり。押井守と行った時もあったよ。

 

麻美子:えー!そんなに仲良いの?!

 

鈴木:だからね、あれは個人差があるんじゃないんですか。だと思いました。いや、もしかしたら、こういう一言で「じゃあ僕行ってみようかな」っていう風になるかもしれないから。

 

---

 

麻美子:じゃあ次、藤田さんお願いします。

 

藤田:私は村上春樹が割と作家で、何冊か読んだことがありまして。

 

鈴木:あ、そうなんだ。ぜひ聞いてみたかった。

 

藤田:今回の映画の原作の短編集も、単行本が出た時に昔読んでたんですけど、今回の映画自体は短編集から『ドライブ・マイ・カー』やその他の短編をもとにオリジナルの脚本を作られてるってことで。そこにワーニャ伯父さんの戯曲の台詞のテープの音読が要所要所に挟まれていて。その台詞の断片が家福だったり、映画の物語にオーバーラップしてる点が原作にはない映像と音を使う、映画ならではの鑑賞体験でそこがすごく面白かったですね。

 

映画観終わった後に、すごい良い映画だっだなという思いと同時に、ちょっとモヤっとした部分があって。それが何にモヤっとしてたのかなってわからなかったんですけど。映画観終わって、ずっと記事読んだり考えてて。

 

昨日ちょっと思い当たったのが、個人的に見たかった物語の映画が、映画自体は家福だったり、みさきの物語がメインになってると思うんですけど、僕個人としては高槻の物語が観たかったんだなってわかって。

 

高槻が音を無くしてどう過ごして、家福に出会って、映画自体は自分の弱さで暴力を振るって逮捕されて、今回の物語から退出していくみたいになってるんですけど、別の世界線じゃないですけど、高槻が逮捕されずにその先の人生が続いていくとしたらどうだったのかなっていうのが見たかったって思ってるんだなって昨日気づきました。

 

麻美子:えー!高槻が魅力的なキャラクターだったんだ?

 

藤田:個人的に弱い、ダメ男の方が好きというか。自分もそんな風なところがあるのかもしれないです。

 

麻美子:えー、見えないな(笑)良かったね、女じゃなくって。

 

藤田:個人的な感情としても、今の自分の立場はどちらかというと高槻に重ねてたんだなって。

 

麻美子:面白い(笑)

 

鈴木:僕はあんまり村上春樹って読んでないんだけど、実はこの映画を観た後、原作読んじゃったんだよね。読んだ時に「あれ?」って思ったのは、映画と随分違うなって。

 

麻美子:そうなんだ。

 

鈴木:タイトルは『ドライブ・マイ・カー』なんだけど、実をいうと、その短編集の中の三本くらいかな?色んなのを使って、それで一本の映画に。それで3時間になっちゃったって、ご本人は言い訳してたけれど。それは嘘だろうって思ったんだけど(笑)

 

麻美子:なんでなんで?

 

鈴木:だって最初から長いのを作りたいに決まってるんだもん。

 

麻美子:あーそういうことか。

 

鈴木:そこはどうだったんですか?村上春樹ファンが今回の映画を観て。それもちょっと訊きたいなって思ったの。

 

藤田:そうですね。テーマとしても映画観終わった後、「喪失からの再生」とかソーニャ伯父さんが絡んできたりしてて、人間讃歌的な読後感というか感覚があったんですけど。観終わった後に。原作とは別のものを作ろうとされてたのかなと思って。そこはそういう別の面白さがありました。通して読んでるわけじゃないんですけど、物語の面白さなんですかね。

 

鈴木:マメは何が面白かったの?

 

麻美子:人の暗い面とか、そういう闇の部分みたいなのを共感出来たんだと思う。若い頃は。

 

藤田:宮崎監督がよく「釣り糸を垂らして闇を覗く」みたいな、そういう話もされてたと思うんですけど、そこに似てる部分は村上春樹の物語に感じたりします。

 

鈴木:今の『ドライブ・マイ・カー』は、10年ぐらい前だとしたら、村上春樹が60いくつで書いてるんだよね。

 

麻美子:えー!

 

鈴木:最近も『一人称単数』とか書いてたけど、あれだって70ぐらいで書いてるんだよ。印象変わらないのね。そうすると、若い時になんちゃらじゃないのよ。

 

麻美子:だから私も、村上春樹はずっとこういうものをまだ書いてるんだなって思った。

 

鈴木:そうそうそう。ずっと書いてるのよ。テーマが「色んなことを忘れちゃうのに、忘れられない記憶がある」。これが大体テーマなのよ。それは具体的に書くのよ。で、「さぁそれで?」っていうと、「いや、そういうことなんだよ」って。そこになんかジーンとさせるものがあるのよ。その書いたものを濱口さんというのは、別物にしてたなっていう気が僕なんかはしたから(笑)

 

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鈴木:大昔、人間ってさ、ある村があるとするじゃない。色んな情報ってその村だけでしょ?旅人が来たら、「あそこの村ではこんなことが起きてる」とか、「Bという村ではこういうことが起きてる」とか、そういうのが来るとみんなビックリするわけじゃない?たぶん情報伝達って、そんなようなことで始まったんでしょ?それがどんどんどんどん広がったのが現代じゃん。

 

それで人間の伝える情報どころか、その前にテレビとかラジオとかあったけれど。何しろインターネットで世界中が繋がったわけでしょ。繋がったけれど、本当に繋がってるんですか?って。

 

一つは、言葉の問題ってあるわけじゃない?途中で韓国の人が説明するじゃん?日本語と韓国語って似てる。構文なんかも同じだよって。あれは非常に珍しくてさ。世界中の言葉でそういう言葉って、韓国語とか日本語みたいな言葉ってほとんどないのよ。どっちかっていうと、英語が多いし。

 

それでいうと、繋がるのはいいけど、どうやってコミュニケーションを交わすって、そちらの問題は全く片付いてないわけよ。グチャグチャになってるのが現代じゃん。そこら辺と関係あるような映画だなって気が、僕なんかはしたんですけどね。どうかな?

 

麻美子:色んな言語で劇をやってたじゃん?

 

鈴木:あの芝居は面白いよね。色んな言語を持ってきて、そのまま普通に喋ってるようにやっちゃうわけでしょ?それで本当に通じるの?日本語同士だってもの凄い難しいのに。てなことら辺にテーマがあるのかなって、パパは観てて思ったよ。

 

「コミュニケーションって、どうすると出来るの?」って。それがラストの方のことと関係あるんじゃないかな?世界は繋がったっていったって、結局、繋がってなかったを証明したのがこのコロナだったし。そこら辺に凄い真剣に取り組んでる映画だという風に気がしたけどね。

 

おウチへ行って、それこそさっきの話よ。奥さんが手話の人だったわけじゃん。で、みんなでご飯を食べる。結局は対面で。で、作ったものを食べるって、凄いコミュニケーションじゃん。そうすると、世界の人は繋がっても、それは中々出来ないことで。ああいう場があったから、家福だって、ドライバーの彼女のことを褒めることが出来たわけじゃん。彼女は嬉しかったわけでしょ?後で言うわけだけど。でも、その場では顔色一つ変えないとかさ(笑)それで突然スクリーンからいなくなったなと思ったら、犬となんかやってたわけでしょ?素直になればいいのにとか思うんだけど、出来ないわけじゃん?

 

だから本当のことをいうと、上手く説明出来ないんだけど、後半、釜山でやる計画だったそこ。本当は釜山でやって欲しかった。日本と釜山の違い。

 

麻美子:いやーそうだね。釜山だったらだいぶ違うもんね。

 

鈴木:欲をいうと、そんなこともちょっと感じたんだけどね。やっぱり日常我々が生きてて、色んな人と色んなグループあるじゃない?それこそプライベートから仕事まで。ところが、これで通じてたと思ったら、通じてなかったことって山のようにあるわけで。同じ日本語圏なのにそういうこともある。外国語が混じってきて、今度は手話も入ってくる。大変だよね。黙ってた方がよっぽどコミュニケーションはあるのよって、そういうシーンのことなんでしょ?あれ。無音っていうのは。

 

麻美子:あーそういうことか。

 

鈴木:そうそうそう。

 

麻美子:昔さ、外国の男の子と付き合ってる友達が、言葉の壁はあるから喋れないから、「言葉の壁はどうしてるの?」って言ったら、「言葉の壁があるのがいい」って言ってたの。

 

鈴木:わかるよ。

 

麻美子:何でも伝えきらないので諦められるのがいいって。だから、言葉で伝え合わない方が伝わることってあるのかもね。

 

鈴木:細かいところに行き過ぎてるわけじゃん。みんな。それでいうと、宮崎駿っていう人はなんと80になって。ある時から彼なんかとんでもないこと始めたんですよ。

 

つい最近なんだけど、テレビ一切見ない。新聞も見ない。そうすると、会社と自宅を往復。あとは話す相手は現場の人だけ。当然、仕事してるわけだから、あんまり雑談もないわけよ。そうすると、世間で起きてることはどうやって手に入れるんですか?ないでしょ?しょうがないんですよ。僕が言うんですよ。

 

(みんな、笑い)

 

鈴木:さっきのね、ジブリっていう村で起きてることはわかるけれど、隣のどころか世界で今こんなことが起きてる、何にも知らないわけですよ。ファイザーだモデルナだって言ったって、これもわかんないしね(笑)自分は高齢者で早々とワクチンを打って、みんなが熱出したっていうのを聞いて驚いてね。「なぜそんなことが起きてるんだ!」って怒ってるんだよね(笑)

 

(みんな、笑い)

 

鈴木:だからね、情報っていうのは過多になると、繋がっちゃうと、ある人は『つながらない勇気』って言う本も出してたけど。なんてことをね、この映画を観ながらっていうのか、やっぱり色々考えちゃったね。

 

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鈴木:僕は1948年生まれ。まだ良い学校へ行こう、なんていう受験は始まったばかりなのよ。やることなすこと、みんなトンチンカンなの(笑)結局、勉強なんてしなかったんだよね。その後の話聞いてると、凄いところにエスカレートしてくんだもん。だからまぁ面白いよね。

 

自分の経験で言うとね、僕の家にテレビっていうのが来たのが、小学校3年だったんですよ。それまでテレビなんて無いわけだから。そうすると、ラジオだけでしょ?テレビ観てたら、最初のうち、夜のゴールデンタイムなんていったら、全部アメリカのテレビシリーズ。あらゆるやつやるんだよね。日本のものなんか何もないわけ。

 

麻美子:へー。

 

鈴木アメリカのホームドラマとかね、西部劇とかギャングものとか。それはアメリカ好きになるよね。

 

小松:確かに(笑)

 

鈴木:だってテレビ観たらさ、ホームドラマなんか玄関開けたら、凄い居間があってデカいのよ。しかも台所行ったら、いまどこの家でもないようなデカい冷蔵庫があるわけよ。日本なんて当時、冷蔵庫ないからね。そうするとさ、その経験っていうのは何だったんだろうなってたまに考えるのよ。

 

そういう中で当然、日本でも作り始めるわけですよ。学園もの、ファミリーの内容。観ていった時に、歳をとったからわかるのよ?最初のうちは、学園ものやっても、先生がみんな素晴らしいのよ。ファミリードラマもさ、全部幸せな家庭をやるのよ。しばらく経つとね、先生って馬鹿にする対象になるんだよね、ドラマの中で(笑)それでお父さんお母さんに対しても、子供たちが足蹴にする。なんでこんな風になってくんだろうって、もの凄い印象に残ってるわけ。

 

その時自分が何を感じたかっていったら、これたぶん実際に生きてる子供達に凄い影響が出る。絶対親のことを馬鹿にするようになるだろうし、先生のことも馬鹿にするようになる。なんてことは考えざるを得なかったよね。

 

何しろスタートから観てるでしょ?良い時の頃から。それがさ、今やめちゃくちゃ細分化された時代で。こっからどうなっていくかだよね。

 

今時だとね、そういう話もよく出るんだけど、コロナの話でいっぱい出るわけですよ。でも僕なんか、コロナがどうなるか、本当のこと言ったら何もわからない。だけれど、「コロナによってどうなるんだろう」には興味あるわけ。人間の生き方にどういう影響が出るんだろう、とかね。

 

それともう一つ。みんなの話聞いてて思ったこと。1960年代にアメリカでこんな本が書かれたんですよ。リースマンっていう人が書いたんですけど、『孤独な群衆』って。みんな都市に人が集まって、田舎から都会へ人が出て行く時代がアメリカだから早かったんだけど、これを全体で俯瞰して見ると、凄い人数。ところが、一人一人は孤独だっていう話なんですよ。

 

それって、ずっと続いててね。このインターネットによって、さらにそれがある種深刻になってるのかな、なんてこともこの映画観て思ったね。

 

なんで自分みたいな人が生まれたんだろうって。一人の人間の考えだけでは、ある一人の人間としては確立しないわけですよ。世の中がどうなっていたかって、絶対関係あるんだよね。興味持ったのよ。自分は一体どういう時代を生きてきたのかなって。それを知ることによって、今の自分を理解出来る。なんていうことをこの映画にも感じた。

 

78年生まれの人だから、こうやって書いてるけれど、この濱口さんっていうのは、これからこの先どうなっていくんだろうって、それに凄い興味がある。