鈴木敏夫のジブリ汗まみれを文字起こしするブログ

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鈴木敏夫のジブリ汗まみれ:「紅の豚」のいまだ語られていない裏の話。

ラジオ音源です

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2014年10月10日放送の「鈴木敏夫ジブリ汗まみれ」です。

現在、文藝春秋から発売中の文春ジブリ文庫ジブリの教科書7 紅の豚」から、今だから語れる制作秘話を、プロデューサーの鈴木さんが語っています。

 

・短編としてはじまった「紅の豚

鈴木敏夫: 「おもひでぽろぽろ」は、ジブリが人を定雇いにして、間断なく作品を作り続けなければない、ということで社員制度を導入した第一作目。宮崎駿は単に映画を作るんじゃなくて、経営者的能力もあるんです。「紅の豚」においてはこれが柱になるかもしれないけれど、本当に感心したんですよね。で、二人でやっていこうということで、宮崎駿が作り、プロデュースならびに会社の運営は鈴木さんやってよ、というはずがちゃんとそちらの方にも配慮する人なんですよ。建前と本音の使い分けが非常に上手くて、自分たちで決めたのはいいけれど、実際やろうとすると大変でしょ?間断なくやるって。この「紅の豚」は準備のことを考えたら、「おもひでぽろぽろ」が完成する前に考えなきゃいけないんですよね。宮さんは自分で考えてそういう会社にしようって言ったくせに、その連続して作らなければいけないってことに一番プレッシャー感じてたのは誰でもない本人なんですよ(笑)

柳橋:あーなるほど。

鈴木敏夫:しかし会社としては連続してやらなければいけない。で、思いついたんですね。俺だって長編をずっと作り続けてきて疲れてる、と。長編アニメーション映画というのはお客さんのことを考えなければいけない。つまりお客さんが観て楽しむものを作らなければならない。毎回それをやるのは俺だって嫌だよと。それで彼が言い出したのは、その両方を一致させるには短編をやろうと。

柳橋:はいはい。

鈴木敏夫:それで言い出したのは「紅の豚」で15分、ということだったんですよね。本当はここでいきなり長編を作っても良かったんですけど、たぶん僕こういう話し方をするのは初めてなんですけど、彼だって長編を作らなければいけないと思っていたけれど、その気にならなかったんでしょうね(笑)その両方を合致させるいい案はないかということで、15分の短編案を出してきた。鈴木さん、これをお金になることに変えてよと。

柳橋:箱を上手く用意してほしいと?

鈴木敏夫:そうそう(笑)ちゃんと建前が立つように。別に遊びでやってるわけじゃない。それを形にしろと。それで飛行機の話だったら、それは飛行機だろうと(笑)いい方法がないかなってときに、飛行機会社が頭に浮かんだんですよ。「魔女の宅急便」でロサンゼルスで、在留日本人のために上映するっていうことがかつてあって、JALの方からそのお話をいただいて、それに協力したことがあったんですよ。その人のことを思い出したて、この人に相談を持ちかければ、やってくれるかもしれないというので、「紅の豚」はJALありきで始まった作品。作画は1991年の3月4月くらいには終わってるんですよ。「紅の豚」の話は前の年からしてる。

柳橋:準備を始めていたと?

鈴木敏夫:そうなんですよ。しなきゃいけなかったんで。本当は「おもひでぽろぽろ」が終わったら、すぐ「紅の豚」に入るということを計画していたんだけど、何しろ初めて連続でやるんで、こちらも慣れてなくてそれが上手くいかない。で、宮さんも15分のものを作るのに、色々あって夏までかかっちゃうんですね。それで制作休暇というのがあって夏だったんですけど、みんな変な話遊んじゃってるんですね。ほとんど仕事が空きになっちゃって。それで夏にやっと「おもひでぽろぽろ」が終わりが見えてきて、作品の準備をやるっていうときは、「おもひでぽろぽろ」が最後の追い込みになる前に段取りをしておかなきゃいけなかった。でも実際に宮さんが取りかかってくれるのが夏になるんですよ。

 

宮崎駿の「書き置き事件」

鈴木敏夫:こういう話をここで持ち出していいのか悩みますけど、「紅の豚」をやることになったのはいいけれど、5月6月ですかね、宮さんが僕の机の上に一枚書き置きを残すっていう事件が起きまして。それは何かというとデッカい字で書いてあるんですよ。「紅の豚。俺一人でやれというのか」(笑)

柳橋:(笑)

鈴木敏夫:だってジブリにいる全スタッフは「おもひでぽろぽろ」にとりかかってるわけでしょ。出来ないわけですよ。僕忙しかったから、それを無視した日のことよく覚えてるんですけどね。ただ、その紙はファイルにとってあるんですよ。

柳橋:なるほど。

 

・ポルコがなぜ豚になったのか追及していくうちに、、

鈴木敏夫:それで宮さんもあーだこーだ言って、僕も顔は少しぐらい出すようにしたんですけど、何しろ常雇いにして初めて成功するかどうかっていうときで、作る方も大変だったし公開、宣伝その他も大変だったし、そんな暇ないわけですよ。で、公開して直後、やっと余裕が出来て二週間現場を休みにしたんですよ。その時に宮さんがたった一人で会社に来るわけですよ。そうすると放ったらかしにするわけにもいかなくて、僕も休みもなしにそこへ行く。社内に二人なんですよね。たった二人で二週間。宮さんがやっと重い腰を上げて絵コンテを描くんです。それであっという間に15分仕上げるんですよ。

柳橋:なるほどなるほど。

鈴木敏夫:それで完成した絵コンテを読むんですけど、宮さんって嫌な性格なんですよ。僕が読むとき僕を一人にしてくれないんです(笑)後ろにいるんですよ。それで僕が集中して読もうとしてるのに、うるさいんですよ!あーでもないこーでもないって(笑)でもそれを振り切って一生懸命読んで。話の内容としては、豚があの子供たちを救う、そこで終わりだったんですよ。僕がその時に発した言葉は「えっこれで終わりですか?」「何でこいつ豚なんですか?」って(笑)

柳橋:そもそも。

鈴木敏夫:そう(笑)そうしたら怒ったんですよ。何を怒り出したかというと、日本映画というのは下らないんだよ、と。すぐに原因と結果を明らかにしようとする。結果だけでいいじゃないか、と。僕は「いや、そういうわけにもいかないんで、こいつがなぜ豚になったさっていうところに興味持つんです。何とかしてくれないですか?」って(笑)それであのジーナの件になるんです。

柳橋:魔法をかけられてっていう。

鈴木敏夫:そう。そこまで描いて約30分。これでどうだ、と(笑)これで終わるってどうするんですかっていう(笑)それでこういう言い方をしたのを覚えてるんですけど、もう一個ぐらい、こいつがなぜ豚になったかをって(笑)これは本当に怒ってましたね!でもそれにもめげず、主人公か人間だった頃のシーンとかを使ってくれるわけですよ。そうこうするうちに、60分くらいになっちゃったんじゃないかなー。

柳橋:だいぶ延びたんですね。

鈴木敏夫:そうなんですよ。それを見てて8月か9月に逆転案ですよね。ここまで来たら、JALさんと話し合ってきたことが上手くいかない。これを映画にしてもらないといけない。何分って言ったか忘れましたけど、80分にしてくれ、とか、そういう逆転案をしたと思うんですよ。それで宮さんの方が、冗談じゃない、今更そんなこと言われたって、と言いつつそれをやろうとしてくれたっていうのが大きな流れなんです。映画のタイトル忘れましたけど、豚のライバルのカーチスその他出して殴り合いのシーンを描きましたけど、あれはジョン・フォードの有名な映画なんですよね(笑)まぁこれしかないだろうなと思いつつ、僕も共犯だと思ってたから、それを見過ごすんですけど。

 

・「女性が飛行機を作る映画」になった理由

鈴木敏夫:作るということにおいては、大事なのはスタッフの問題。「おもひでぽろぽろ」の作画の中心は近藤喜文。この人が2年間やってクタクタになってたんですね。それから美術の中心人物の男鹿和雄。この人もガタガタ。じゃあどうしたらいいのっていう問題が出てくるんです。それでその下にいるスタッフの中から選抜してやるっていうのが順当なところなんですけど、それは何を引き起こすかというと、作品の弱体化を生み出しちゃうわけです。

柳橋:なるほど。

鈴木敏夫:そんな時に宮さんと相談していたら、宮さんが「今度はスタッフを一新。全ての重要な仕事を女性で占めよう」と。感心しましたね。つまりマイナスをプラスに転化させるにはキャッチフレーズなんですよ。女性で作る飛行機の映画。で、絵の中心が賀川愛ちゃん。ジブリでは良いアニメーターとして活躍してきたけれど、作画監督はやったことがない。美術の方を久村かっちゃん(佳津)という女性がいて、男鹿さんの弟子だったんですけど、その人を起用。映画作るときって監督の両脇の作画と美術を誰が占めるのか、それを女性二人で占めるって物凄く大きいことだったんですよ。当時のアニメーション界でも画期的。で、音の方も浅梨なおこちゃんという女の子にするとか、ポイントを全部女性陣でやる。それで話が飛びますけど飛行機を作る現場、飛行機を直してたの全部女性でしょ?

柳橋:そうですね。

鈴木敏夫:あれはリアリティーないわけですよ、本来。だけれど自分たちがそのまま映画にしちゃおうって発想なんですよ。

柳橋:なるほど。

鈴木敏夫:宮さんは一種フェミニストだと思うんですけど、じゃあ何故フェミニストになったのかということがあって、本来宮さんという人は日本の精神風土が大好きで、どっちかというと男尊女卑の人だったと思うんですよ。古い日本人だから。だけれど、自分が働き始めた東映動画は他の職場と大きく違ってたことがあるんですよ。何かというと、女性が多い。女性を大事にしなかったら映画が作れない。最初から女性の人数が多かったんですよ。そんなことがあったと思うんですよね。

 

・「紅の豚」の時点でも、まだ期待値が低かった宮崎駿

鈴木敏夫:「紅の豚」って普通にやると、興行が難しかったんですよ。というのは当時東宝が配給をするというと、洋画は二系統しかないんですよ。その時に「紅の豚」も洋画系でやりましたから、スピルバーグの「フック」がアメリカで大ヒット。日本でも大きなヒットをするだろうと。当時日本全国回ってみるとわかるんですけど、東宝の映画館系列は二系統。洋画をやるのは二館しかないんですよ。一館目がデッカい映画館。隣にあるのが小さいんです。当然フックは大きい方でやるっていう契約が出来てるんですよ。で、「紅の豚」は小さい方ということになると、普通の映画館でやる半分くらいしか人が入らないんですよ。それを何とかしたいと思って、実は初めての全国キャンペーンというのをやるんですよ。当時東宝は大反対。

柳橋:あーそうなんですか?

鈴木敏夫:そうなんです。これが初めての本格的なキャンペーンなんですよ。誰もやったことなかったんです。僕は「となりのトトロ」と「火垂るの墓」のときに、映画の配給を巡って大喧嘩したことがあるんです。

柳橋:その方なんですね。

鈴木敏夫:そうです。それがキッカケで凄く仲良くなったんです。僕が色々頑張るっていうのをこの方が見ててくれてので。で、この人が「鈴木さん、やったことないことやろうか」って。映画ってやる前から数字わかってるんですよ。

柳橋:小屋が決まった時点で。

鈴木敏夫:そう。この人も何処かで日本映画それで良いのか?って思ってた人だったんです。宮崎駿作品を今までやってきてるけど、まだ東宝の信頼を得るまでになってないんですよ。

柳橋:まだ?

鈴木敏夫:まだ。参考までに申し上げると、宮崎駿が映画業界から期待され始めたのは「もののけ姫」のあとですから。これが現実なんですよ。で、やろうかっていうんで、何やるのかなと思ったら、さっきの二館あるでしょ?これは契約してるからやらないわけにはいかない。やるっていうことは看板が立つんですね。それを関東はダメたから関東以外をやろうっていうんです。何やるんですか?っていったら、一日だけ「フック」やって二日目から「紅の豚」に変えるって(笑)

柳橋:なるほど。へぇー。

鈴木敏夫:やってくれたんですよ。

柳橋:すごい。

鈴木敏夫:この人は全国の映画館主に睨みがきいたんで。一晩で映画館がバタバタと変わるんです。その結果が28.5(億)かな。企画も大事、作るのも大事、宣伝も大事だけれど、実は最後の配給が物凄く大事。作ること、売ること、最後どうやって観てもらうか。この三つが一つにならないと、ヒットは生まれないんですよ。それを思い知った記念すべき作品ですね。この人のやり方が変わっていくのが「もののけ姫」のあとから。なんでかというと、シネコンが出てきて、近代化が起こるんです。この方が67歳くらいで亡くなっちゃうんですけど、真っ先に駆けつけましたよ。

柳橋:キャンペーンを全国回ったというのは、地方の小屋でその作戦をとる以上は、地方を一生懸命にプッシュしなければならないっていうのがあったんですか?

鈴木敏夫:地方の数字を良くしようと思ったんです。大体映画って関東とそれ以外なんです。あらゆる作品が関東が60%から70%で、それ以外は30から40%だったんです。それをひっくり返そうと思ったんです。だか、各地域に行って何やるかというと、現地の新聞、雑誌、テレビ、ラジオの取材をやって、尚且つ試写会をやるんです。そこで特別協賛のスポンサーが出るっていう。試写会って凄い大きいんですよ。何かというと、試写会ってお客さんに来てもらうことも大事なんだけど、実は試写会告知つていうのをテレビでやるんですよ。これが大宣伝なんですね、地方の。

柳橋:なるほど。

鈴木敏夫:僕が日本テレビと組むっていう時に何が大事かというと、あそこのネット局は43 。東京だけじゃないんですよ。その43局ネットでそれぞれ試写会をやる。そうするとテレビで何十本という告知がでるんです。これが大きいですね。そこら辺が有機的に全部繋がってくるんです。