2008年9月16日放送の「鈴木敏夫のジブリ汗まみれ』です。
https://podcasts.tfm.co.jp/podcasts/tokyo/rg/suzuki_vol50.mp3
鈴木
そんなわけでいっぱい観てるんですよ、僕。僕が学生ですから40年ぐらい前なんじゃないですかね。ちょっとわかんないですけど。そういう年号って全然覚えられない方なので。ヒット作はもう全部。
山田
もう始まってるんですか?(笑)
鈴木
山田さんの場合は、僕の勝手な思いですよ?どこかに常に道徳っていう問題があるんですよ。失われつつある。それの蘇らせ方が凄い絶妙で。今の時代を見て話を作るっていうのは、山田さんの専売特許だったんですよ。だから僕なんかはそれをテレビその他で観て、ずいぶん勉強した世代ですよね。実に捉えてらっしゃるんで。
ついでだから言っちゃいますけど、山田さんのファンだったっていうのもあって山田さんに二回ぐらいシナリオを依頼に行ってるんですよ。釣れなく断られました(笑)
山田
いやいや。恐れ多くて。
鈴木
いやいや、とんでもない!(笑)
ーナレーションー
この番組は、ウォルト・ディズニー・スタジオ・ホームエンターテインメント、読売新聞。“Dream Skyward"JAL、"街のホットステーション"ローソン、アサヒ飲料の提供でお送りします。
山田
宮崎さんのウンと初期はわかりませんけど、大半拝見してて、とても尊敬してますので。ぜひ見たいと思って、こんな良い機会はないと思って見させていただきました。
僕は『ポニョ』では何より、波がワーっと来た時にポニョの赤いのがチラッと見えて、全速で走りますよね?あれは小型のアシュラが走ってるみたいなね。
鈴木
そうですね。アシュラですね。あの一枚を描いた時に「これでやれる」と。
山田
あ、そうですか。いつも宮崎さんには驚かされるけど。
鈴木
「ポニョ、来る」なんて、自分で勝手にタイトルつけてましたけどね(笑)
ーナレーションー
気がつけば『ポニョ』公開から2ヶ月。いつの間にか季節は秋に。ようやく静けさを取り戻したれんが屋には、夜毎『ポニョ』について語り合いたいというお客様が訪れます。
鈴木
彼もそれまでの作品で水はやってないかって言われたら、色んな形で描いてきたんですけど、若き日に「水はこうやって描こう」って高畑勲と決めた水の描き方っていうのがあるんですよ。それで30年ずっとやってきて。それを1回ぶち壊して、新しくやってみたい。それが1つの大きなテーマだったんですね。海も生き物なんだっていう。
山田
そりゃあ生き物ですよね。最初のカットだってキレイだし、水の中もとてもキレイだし。宮崎さんはいつも、我々が発想している領域ではない何かの存在っていうのを、、、
ーナレーションー
たぶん『ポニョ』は、観ると誰かと話したくなる映画なのかもしれません。
山田
みんなが期待してますでしょ?そのプレッシャーだけで大変だと思うけど、みんななんていうのは実に多様な要求を持っているわけですから、その辺を全部満たすわけにはいかないんだから。
鈴木
みんなから期待されるって、普通ストレスですよね?それを感じる能力が普通の人より劣ってますね。
山田
あ、そうですか。それは才能ですね。
鈴木
そう。僕は才能だと思います。
山田
そういうプレッシャーっていうのは、良く働く時もあるけど、概しては作家を潰してしまうこともありますからね。それはなるべく感じない方がいいですよね。
鈴木
もう一つ感心するのは、アニメーションって期間が長いから、三年とか四年かかったりするじゃないですか。その間に積み重ねてきた技術とか実績とか色々あるはずなのに、まるで素人のように作り始めるんですよね。これも僕才能だと思うんですよ。
山田
それはわかりますね。工芸品じゃないから新しく作る時には、新人であろうとロートルであろうと白紙から始めるんですよね。それで物語はそれぞれのスタイルを持ってるから、今までの成功例ってあんまり参考にならないんですよね。それは僕はわかるなあ。
今回も凄いですよね。嵐のシーンはものすごく力がこもっていて素晴らしいし、氾濫したあの風景も凄いし。
ーナレーションー
今夜、こんな風に『ポニョ』を語り始めたのは、鈴木さんが尊敬する脚本家・山田太一さんです。
山田
宮崎さんの1つの利点でもありハンディーキャップでもあろうと思うのは、お子さんがご覧になるってことね。観る方に子供がいるってことのもどかしさみたいなものを、宮崎さんはいつも感じてらっしゃるんじゃないかなって『ハウル』にしても感じましたけどね。
鈴木
どういうところでそういうのを感じられるんですかね?今回の『ポニョ』だと。
山田
今回のだと、ネガティブなものっていうのはなるべく排除しますでしょう。ところが、ネガティブなものを通過しないと明るくならないとか、そういうものはどうしてもありますですよね?だけど、氾濫の部分で船がいっぱい灯りをつけて。船の墓場のシーン。あのシーンなんかは素晴らしいと思いますね。
鈴木
イマジネーションとしてっていうことですよね?
山田
そう。イマジネーションとして。氾濫なんて
実は色んなネガティブなものを抱えてるわけだけど、そういうものは描けないといえば描けない。そんなものを描いてもしょうがないといえばしょうがないのかもしれないけれど。ちょっと下げてらっしゃるっていうのかな、そういうものを感じたので、それを乗り越えたっていう部分がちょっと弱いといえば弱いのかなっていう気も失礼ながらしましたけど。
鈴木
僕はそういう性格なんですけれど、「どっちが傑作か」とか「今の時代はどっちがウケるか」とか考えちゃうんですよね。これは観る方のその時の状態、感性で色々あると思うんですけど、ある種、「死」の匂いは感じましたけどね。それに対される強い「生」って言うんですか。強烈じゃないですか、生きるってことに。だから面白いことやるなー、なんてそばで見てて思ったんですけどね。本人は臨死体験やりたかったんですね。やっぱりこっちの世界があったら、向こうは魔法の国。映画だと1回じゃわからないかもしれないですけど、デイケアセンターにいるおばあちゃん達、きがな海を見てるわけで。彼としてはそれは布石なんですね。そのお迎えは来てるっていう設定で。彼としてはあの世をやってみたかったんですね。
山田
ポニョは「死からの再生」ということですか?
鈴木
だと思ってましたけどね。
山田
今の人間の秩序とは違うところから、ある秩序が来るわけじゃないですか。そこの所は非常に面白くて「なるほどー」と思いましたね。お父さんは人間であることにうんざりしてやめちゃった人でしょう。で、お母さんは観音様みたいな人でしょう。そこの辺りがどういうことが背後にあるのかがちょっとわかりにくかったですね。ポニョが人間になるところで終わるっていうのがこういうものでは一つの古典的な形ではあるんだけども。
宮崎さんだったら、もう一声違うっていうかな、つまり、人間になることがハッピーだって思えない時代じゃないですか。それだからお父さんもうんざりして別の存在になったという相対化が行われてるわけですよね。作品の中で。これはポニョとは宿命的、運命的に別れざるを得ない、そして男の子も大きくなってしまう、そういうものを含んだ別れみたいなものを含んだものがある終わり方もあったんじゃないかなって思いました。
鈴木
実は僕も「普通、宮さん別れますよ」って。そうすると、観客が受け取るものが明快になると。でも普通の人ではないんで、しないだろうと思ってましたけどね(笑)それを絵の馬力でやっちゃおうという人ですから。
山田
みんなが思う通りになるのも悲しいですけどね。意表を突くっていうことはとても大事だと思いますけども。
鈴木
今回、僕が見てて改めて思ったのが、言葉で説明出来ないもの、それをやりたいっていうのが益々強くなってきたなっていう。
山田
それは素晴らしいことですね。
鈴木
そういうことを言えば言うほど、そうじゃないものを主張したい。片方に言葉があって、片方に映像、本来映画って両方入るじゃないですか。だけど、全体の傾向として言葉よりも絵の方に力点を置くものが世界的に増えてるような気がして。
山田
それはそうですね。やっぱり理性の時代では行き詰まってますからね。
鈴木
ということですよね。例えば、トトロだって線で書いているわけで、まさかあのお腹が指で押したらへっこむ。それを感じさせてくれるわけでしょう。これは彼の持ち物ですよね。他の人がやったらそうはいかない。お腹がへっこみそうなんてね、実に単純なことなのにみんな描けない。それを彼は描いちゃうんですよね。今回のアニメーションでも大事なところは全部彼が描いてるんですよ。
それと彼が今回こだわったのは、海の大変なところもやってるんですけど、静かな海も全部一人でやってるんですよ。実はそこにものすごい力を入れてるんですよ。どうやったら海が自然に見えるか。あれは他の人に任せられないって。他の人がやったやつがあるんですけど、なんか違和感があるんですよ。三角でちょっと色が濃くなっている小学生が描いたような波、それもタイミングなんですよね。そうやって波だけ見ていくと、実は無茶苦茶上手いんですよ。やっぱり見てて、彼にしか出来ないんだな、こういう技はって思いましたけどね。
山田
全部宮崎さんが発想しなきゃないものなんだから、アニメーションっていうのは凄いなって思いますね。2時間で見ちゃっていいんだろうかって、申し訳ないような気がする。『千と千尋』なんて何回見たかわからないくらい見てますけどね。孫達がいるせいっていうのもあるけど。
鈴木
世界を探しても、長編アニメーション映画を一人の考えで作る、これはないんですよね。しかも出てくる絵の元は全部宮崎が作ってるんで。そうすると例えば、ディズニーだと最初から長編を一人で作るっていうのは諦めがあって、最初にみんなで「テーマをどうする?」って討議をする。そのやっていく過程でそれぞれの役割を決めてやるんですけど。
山田
やっぱり個人の人間が出来上がっていく、色んな体験だとか考えだとか、色んなものを根拠にしないと薄くなりますよね。
鈴木
彼の場合、全支配ですからね。これはたぶん彼が最初で最後になるんじゃないかっていう。
山田
凄い仕事をなさってますね。それは。
鈴木
彼が一つルール化してることがあるんですよ。「自分の悩みはスタッフのいるところで」って。大変なんですよ、僕なんかは(笑)
山田
いやー楽しいですね。
鈴木
いやいや(笑)
鈴木
根拠がなくて、あることが起こるみたいな、そういう作り方をずいぶんされてるような気がして。
山田
僕なんかのことを言ってもしょうがないですけど、人物に一貫性を持たせるということに対して、非常に抵抗がありますね。キャラクターをはっきりさせて対立をはっきりさせてっていうような物語の作り方っていうものに対して、何とか逆らいたい。その人物に似合う事件しか起こらないとか、そういうようなこと。
鈴木
やっぱり彼の作品って、実は支えてるのはそれですね。それを潜在的に観客が受け取ってるっていうのも感じますけどね。
山田
それは感じ取ってますね。
ーナレーションー
ポニョを見ると、ポニョをわかりたくなる。だからポニョを読み解く。でもなんだか上手く解けない。でもポニョを読み解こうとする人の今が少しだけ読み解ける。
ポニョは不思議です。
山田
でも私なんかの仕事はリアリズムは外せないですよね。小説の場合には少し外してるけど。だから非常に羨ましいっていうかな。視点を変えると、世の中がガラッと変わるっていうのは萩原朔太郎が『猫町』っていう小説で、自分のウチの近所を歩いてて、角度が違うと、他所の町を歩いてるような気がして。
あの人は、フランスは行きたいと思うけど、そんな金はない、っていう詩を書いてますよね。だけど、『猫町』の時のまえがきには、色んな国へ行ったり歩いたりしても、結局似たような人間が似たような生活をしているだけで、つまり、味気ない。基本的には退屈であると思って。
そして体を少し壊して、自分のウチの周りを歩いて、いつも歩かない道を歩いたら、ものすごく違った町に見えた。それは瞬間なんですよね。それはすぐに気がついてしまったけれども、つまり、全然違うところを歩いてると思った。その瞬間みたいなものを『ポニョ』はワーっと拡大して見せてくれたっていう風に思いますね。私たちは基本的にそういうものに飢えてると思う。
鈴木
やっぱり、言葉で説明出来ないもの。
(了)