鈴木敏夫のジブリ汗まみれを文字起こしするブログ

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号外ポッドキャスト!TOKYO FM独占インタビュー 宮崎駿監督 ポニョのことば 出演:宮崎駿さん

 

ーナレーションー

宮崎駿 ポニョのことば。

 

「崖の上の日々」。

 

宮崎

ハウル』のあと、悔しかったですね。そうかみんなわからないんだっていう。みんなっていうのは失礼だけど。一言でいえばそれなんです。子供の映画を作らなきゃいけないって言ってた人間が、こんなもんを作ってしまったと思って、次の作品にかかるまでダメでしたね。僕は。

 

ーナレーションー

映画『崖の上のポニョ』は、5歳の男の子宗介と真っ赤な魚の女の子ポニョの物語。舞台は崖のある小さな港町です。

 

実はこの港町は、3年半前にジブリが社員旅行で訪れた場所がモデルで、崖の上の家はその時の宿舎だったんだそうです。その家を気に入った宮崎監督は、『ハウル』で疲れた頭と心を癒しに、再び1人で崖の上の家へ。2ヶ月間そこで暮らしたそうです。

 

『ポニョ』が生まれた海辺の時間について、宮崎監督が語ってくれました。

宮崎

これは自律神経失調を回復するのに、軽いやつでも最低半年という話だそうなんで。自律神経失調になるんですね。神経衰弱ですよ。昔でいえば。夏目漱石風に言わせれば。

 

明治時代に文明が進めば進むほど、みんな孤立する、神経衰弱にならざるを得ないっていうようなことを漱石が書いてますけど。

 

1人になる時間がいるんですよ。人の渦の中にいますからね。だから本当に1人になって単純な生活をしてると、随分回復してくるんです。単純な生活っていうのは、自分でご飯を食べて、洗濯をして、歩いて、またご飯を食べて、ゴソゴソと何かを読んで、また寝て、また起きてっていうのを延々繰り返していくと。

 

で、なるべく知らない場所の方が良いんです。本当に崖の上に建っているお屋敷に社員旅行で泊めてもらって。「お金はいらない、しばらくいてもいい」っていう返事が来たものですから、2ヶ月いたかな。

 

ただとにかく歩く。お昼はアンパン2個が最良であるってことかわかったんですけどね。同じ道を毎日歩いてました。そのうちに違う道を歩いたりもしたけど、そう何本もある所じゃないんですよ。なんせ海岸だから。

 

そうすると、そういう状態の時って風景をよく見るんですよ。春になってきたら、ウグイスがいっぱいいましてね。昔の段々畑だった所が林に戻りつつある。森に戻りつつあるんですかね。

 

で、聞こえてくるのは、木立の向こうにいる海で動いている船のエンジンの音だけなんですよ。船の一艘一艘がエンジンの音が違うんでね。これがまた個性的なんですよ。本当に静かで、ウグイスが僕がタバコを吸ってると怒るんですよね。俺のテリトリーだって。目の前に飛んで来て怒ってたウグイスいましたから。

 

普通ここら辺にいたら体験出来ないようなことをいくつか体験しましたね。面白かったですよ。追い詰められてる時の方が風景はキレイに見えますから。追い詰められてると神経がそのまま空気に触れるようになってくるんですよ。そうすると、景色もキレイに見えるんですよね。神経が直に触れてるっていうね。だから、追い詰められてる時こそ、夕焼けなんかも染みるんですよ。歩いてても。崖の上からなんでか知らないけどそれを見ているっていう。誰が見てるかもわからないんですよ。

 

そういう情景はあったんです。それがずっと頭にあって、それはどこにはめ込まれるジグソーパズルのピースなんだかわからないんだけど、それが出てくるような映像を作りたいとは思ったんです。

 

ーナレーションー

宮崎駿 ポニョのことば。

 

「地球」。

 

宮崎

災害が山ほど起こるから、物凄く雑な話ですけど、それは政府がいけないんだとかそういう話じゃなくて、ポニョが暴れてるんだって思った方がね、子供にとっては楽だと思うんですよね(笑)これはいい加減な言い方ですけど(笑)

 

ーナレーションー

映画『崖の上のポニョ』は、5歳の男の子宗介が暮らす小さな漁村に、真っ赤な魚の女の子ポニョがやってくる物語です。

 

でもその海への町には、ポニョと一緒に想像を絶する大嵐がやってきます。地球温暖化の時代に次々と起こる天変地異。そんな世界にどう生きるべきか、宮崎監督がポニョに託したそんな地球への思いをお届けします。

 

宮崎

能登半島地震で自分のうちが潰れたお爺ちゃんをテレビで観たんですけど、「いやーペシャンコになっちゃったよ。アッハッハ!」って笑ってたんですけど(笑)僕好きだったですね、このお爺ちゃんが。

 

男性

なるほど(笑)

 

宮崎

それは大変ですよ?大変に決まってますよ。でもそういう方が好きですね。たぶん他の国の人には理解されないかもしれないけど。でも僕は食べるものがないんだよっていう人よりもしょうがないから笑ってるっていう、そういう笑いの方に共感する人間ですから(笑)平然とはしてないんでしょうけど、痩せ我慢なのかもしれないし何なんだろうって思うけど、そのお爺ちゃんが良いなって思ってるお爺ちゃんの僕も一体何なんだ。僕もお爺ちゃんですから。

 

もう海面は上昇するし、見落とされていた活断層なんてね、見落としていなかったら何とかなったのかっていう。何ともならないじゃあね。そういう意味では東京なんてモロに博打で。

 

だから来るんですよ。縄文海進って言って、海が来てまた引いていって、また戻ってくるっていうことがね。地質学的な時間でいえば、また戻ってきてまた引いてって、日本列島そのものがそうやって出たり引っ込んだりしながら火山で形成されてきた島ですから。それが良いの悪いのじゃなくてそういうものなんですね。世界は。

 

岩ですら生きてるんですよ。全部動いてるんですよ。星の表面も中も。宇宙における地球の位置も。それでガイア理論なんて出てるでしょ?宇宙の中の1つの星である地球そのものも1つの生命体のように考えてつかまえていくとか。

 

どうしても目の前でちょっと事故が起きると、その悲惨さに目を奪われて、それはなるべく丁重に取り扱わなければいけないものだとか、その時にそこで苦しんでる人のことを思え、とかね、そういうことにばっかり焦点を合わせるけど、自分たちが何年か続いたことがちょっと変わると、これは悲惨なことであってはならないことだと思いますっていうのは滑稽ですよね。

 

テレビのカメラに向かって悲惨さを訴えるよりも、「いやー潰れちゃいましたよ。アッハッハ!」って言ってるお爺さんの方が僕は良いと思ってるんです。でも僕はそれを問題だっていうこと自体も違うんじゃないかな。生き物は生きてたら事故も起こるんですよ。不幸なことも起こるんです。それも全部誰かのせいだ、犯人を見つけて、そいつに賠償させようとか。

 

それを考えていくと、子供なんか預かれないですよ。保育園なんて。こんな浅い池作ったって、そこで溺れることは出来ますからね。じゃあ池をなしにして地面を平らにして階段もなしにして、どこも引っかからないような所に座ったら、ちゃんとまともに育つのかっていったら、育たないですよ。落っこちて擦りむいてひっくり返って水飲んで火傷して、旧石器人がやってきたことを全部出来るようなってからじゃないと、人間の脳は動かないと思うんですよね。火をつけて燃やし続けて消すことが出来るとか。

 

男性

そういう所に子供を出さないから、安全なバーチャルの中ですごいドラマをやっちゃうんですね。

 

宮崎

早晩崩れるだろうと思いますよ。こういう幻影で塗り固めた社会っていうのは。それは他所の国の町工場で作ったものを享受して、消費者をやって王様になってるわけでしょ?そんなの長く続かないですよ。続かなくなると思うんです。自分たちで食うものは自分たちで作るしかないってところがもうすぐ来るんじゃないかと思ってるんですけど。

 

否応なくこちらがとやかく言わなくても、化けの皮は剥がれるから、その惨憺たる時代にどうやって生きてくかっていう。人生っていうものはそういうもんだって言ってやるしかないですよね。そう思いませんか?

 

そんな偉そうなことを言っているよりも、僕はアニメーション45年やってますけど、そんなことを出来ること自体が世界史の中で運がいい所に属してるんですよ。当たりくじ引いたんですよ(笑)今からアニメーターになる人は辺りになるかわからないですよ。最初の5年間は続いたけど、あとは仕事なくなりました、とかね。僕らの時もそういう思いでやってましたけど、アニメーションなんかいつまで続くんだっていうのは、20代は本当に不安と焦燥の中にいましたけど。それは変わらないと思いますけど、結果的にみると、当たりの時期にいたんですよ。

 

こういうことが一種の仕事としてずっと続くこと自体が稀有な例だと思わないといけないと思ったんですよ。申し訳ありませんでした。紙を一杯使ってって(笑)どうも僕が1番使ってるみたいなんですよ。無駄紙を。鉛筆も。ちょっと短くなると、「もうダメだ」っていって取り替えるし。「今日はご褒美に新しい鉛筆をおろそう」とかね。見る見るうちに減っていきますからね。ナイフで削っていれば、時間は食うようだけど実は消費量は少なくて済むんです。ウィーンっと突っ込むからですね。わかってるんですよ。わかってるんですけど、やってられないんですよ、もう。

 

でも今の暮らし方っていうのは、そういう風になっちゃうように出来てますね。文明というのはね。これダメですよ。ダメだと思います。

 

僕がアニメーションを作るってことは紙を無駄にして、電気を煌々とつけて1人が残業するためにエアコンまでつけてたら頭にくるんですけどね。自分のうちでやれって言いたくなるんですよ。そんなことどうでもいいんですけど(笑)

 

物凄く無駄遣いしてるんです。日本テレビの屋上へ登ってみると、海が早く戻ってきて、これ全部海に沈めてくれないかなってチラッと思ったりもしますけどね(笑)東京という呪われた街を(笑)なんかよくわからないですけど(笑)

 

しょうがない。そういう業を背負って仕事に就いちゃったから。自分が良いことをやってるとか、子供のためにやってます、なんてことよりも、そういう部分は十分わかってるけど、鴨長明は歌を作るしかなかったりとか、とりあえず鈴木プロデューサーはプロデューサーをやるしかないし、僕も映画を作るしかないから、罪滅ぼしに保育園なんて作ったりなんかして(笑)何も滅ぼされずに何もバランスをとれずに、前の扉は開いたから、薄明の中を歩いていこうってそんな感じですね。

 

ーナレーションー

宮崎駿 ポニョのことば。

 

「子供の世界」。

 

宮崎

閉塞感っていうのは物凄く強くなってると思うんですよね。閉塞感が強くなってる時に何を拠り所にしていくのかっていう。これも使い物にならん、これも使い物にならんってなってる時にギリギリになってくるのは子供だったりするんですよ。小さな子供。今の時代を考えると、やっぱりそこなんです。最後の拠り所になってくるのは。

 

ーナレーションー

映画『崖の上のポニョ』は、5歳の男の子宗介と真っ赤な魚の女の子ポニョの物語です。

 

宮崎監督はどんな思いで、この子供たちの世界を描いたのでしょう。

 

宮崎監督が子供に託した思いをお届けします。

 

宮崎

波にも命がある。波にもね。子供たちの中にはああいう世界があるんだと思ってますよ。それは難しく言えば、水面下の世界と水面の上の世界と、この世とあの世と、生と死とか、色んな言い方が出来ますけど、基本的に5歳の子がわかればいいっていう。5歳の子だったらわかるだろうって。むしろ50歳の人間はわからなくなるかもしれないけど、これは5歳の子なら理解してくれるところで映画を作って(笑)

 

男性

なるほど。5歳って宮崎さんにとっては特別な年齢なんですかね?宗介くん5歳ですけど。

 

宮崎

保育園に行ってみるとわかるんですけど、6歳の子もいますよね。学童前にね。女の子なんかとんでもないですよね。いたぶられますよ、もう。保育園のそばに行って話しているうちに。「お爺ちゃん、いくつ?」とか色んなこときかれて(笑)飴があると思って向こうは安心してるんですよね。自分たちが考えてる5歳の子供よりも、本当の子供たちの方が言語能力も含めて、あとは言葉には出来ないけれど感じ取ってるものに関しては、ほとんど大人を超えるような直感力を持ってる。

 

で、言葉を覚えていくに従って、言葉に転換していきますから、肝心なものをなくしていくギリギリのところに5歳っているんじゃないかなって。なんか全然わかってるんじゃないかなって思うんです。直感で。

 

いま僕が感じているのは、日本のアニメーションは終わりだなと思ってるんですけど(笑)それは子供たちがバーチャルなもので育っているからです。アニメーションっていうのは、自分の体が覚えたことを思い出していく作業なんですよ。

 

確かに映画を観たり芝居を観たりとか、色んなことの経験もその中に入ってるんですけど、自分の肉体的にこうやってバランスをとる、これ以上行ったら落っこちる、落っこちまいとする時、人間の体がどういう風に動くかとか、自分の体にいつの間にか入ってるんです。普通の成長する過程の中で。それを記憶で思い出していく作業なんです。描いていく時に。

 

それで納得した動きが出来た時に、自分の肉体的な経験が脳の奥の方から出てきて、それで納得した自分の動きが出来上がっていくんです。1番基礎になるのは人間の経験です。重力とか弾力とか意志とか抵抗とか色んなものがね。

 

それをバーチャルなものを持ってる人間は、ゲームをやってきたとか。ないんですね。前頭葉を使ってないんだと思うんです。つまり、マッチを擦ったことももちろんない、ライターをつけたこともない、なぜなら父親はタバコを吸わないから。それから家庭でガスを使ったことがない。電気のヒートプレートでやってるから。

 

そういう人間が火を描くってなったら、僕は「ここで火を見ろ」って若いアニメーターを連れてきたことがありますけど、彼は4時間くらい見てましたけどね。初めてなんですよ、裸火を見るのが。そういう人間に官能的な肉体的な演技を描かせるのは至難の技ですね。どんなに本人が努力しても。

 

基本的に人間の脳のプログラムだって、針を使ったり火を使ったり切ったり曲げたりとか、そういうことの上に思考が組み立てられたりしてると僕は思うんで、その土台の部分を外して上の形而上の部分だけで行くはずはないと思いますけどね。やっぱり土台の方をちゃんとやらないとダメなんじゃないかなって。

 

でも必要なときは来ますよ。ポニョが一瞬魔法をかけたのを見て「すごい!」って思う子ね。「いまお前何になったんだ?」じゃなくて。「ポニョすごい!」って。そういう意味では薄氷を踏むような瞬間は何度もあるんです。あの映画の中には。

 

最初にポニョに水をかけられた時に、「うぇー!」って嫌がって「何だコイツは!」って思う子も結構多いと思うんです。大人も含めて。それを水をかけられても全然平気で、むしろ「ワハハ」って笑うような子ってのは世界中にいませんっていうやつと、わかりませんよ?いるかいないかは。でもそういう子が成り立つかどうかってことです。お客がおかしいって思ったら宗介が崩れていくんですよ。そういう一重一重を乗り越えていってやっていかなきゃいけませんから。でも僕はいるって思うようになりましたね。

 

そこで保育園やってますけど、この僅かな間に子供たち見てて、大丈夫だって。この映画は作れるって。ポニョみたいなのがいる。それは抑えてる、隠されてる、あるいは発揮してる人もいるし色々いるけども、その人の個性というよりももっと深くあるもんだなって。ポニョみたいなのが入ってる。大人になっても。

 

(了)